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自分の言葉

自分の言葉はどこにあるのかと考え始めた時に、では過去これまでがそうじゃなかったことに気付かされる。自分が書いているくせに、全て誰かの思考を借りたところから出たものだったりするから、いつかどこかで見かけたことのあるようなものが表出されている。それらは特定の誰かの真似のように見えることもあるし、社会的に角を落としに落とした折衷案の中央部分のエッセンスだったりもして、つまり最近で言えばAIが作った文章みたいなものに近い匂いがしたりもして、体温も呼吸も心拍もない。

音楽の分野から芸術について一応専門的に研究し学んできた過去がある私としては、模倣から始まるオリジナルな何かを否定はしていない。例えば音楽を作曲しようとしたら西洋音楽の歴史に基づく音階と五線譜を採用して作曲をするかもしれないし、それは昔の誰かが作ったルールを採用しているわけで、つまりは完全オリジナルな音楽創作とは言い切れない。どこかの何かを真似しながら、和音進行のルールを覚えて、なんとか長調だなんたら短調だという中で展開していく以上、先人たちの偉大な作品が新しい時代の曲の根底にあることは間違いない。仮に無調音楽や十二音音階を使って作曲を始めた人たちのことを考えたとしても、またこれから新しく生まれてくる独自の音階や新しい採用ヘルツを使って出された音の音楽を生み出したとしても、それらの根っこにはバッハやモーツアルトやベートーヴェンがいる。

美術も、ある有名になった作家の過去作をみていくと、初期の頃は全然違う作風だったりして、それが誰か影響を受けた人の要素がたっぷりわかりやすく見て取れるものだったりすることはよくある話。

言葉もおそらくそうだ。日本人として生まれて日本語を学び、それは最初は自分が関わった家族の使う日本語の模倣から始まって、だんだん関与する人の範囲が広がり幼稚園や小学校で使われる言語のエッセンスが自分に組み込まれていく。
完全オリジナルな自分の言葉を紡ぎ出すのは、生まれてからのベースがある限り、厳密には不可能なのだろう。けれどどこかで気が付き始めた違和感を無視せず、自分にしっくりくる言葉を探し続けることはできる。

スピリチュアルな話みたいになってしまうから少し言い方を考えたいなとは思うのだけれど、上手い表現が見つからないので、恐れずにそのまま書いてみるならば、自分が生まれた時から持っている魂の言葉のリズムや温度感みたいなものが一人ひとりにはあって、その魂の言葉と、生まれた時の環境から大きく影響を受けて積み重なった言葉の間に、ずれが少なければあまり違和感を感じることもなく、逆にずれが大きいと成長するにつれて自分の言葉じゃないものを使っているような気がしてくるように思う。

違和感がある言葉の連続は、おそらく「あ、なんか偽ってるな」とすぐにバレる。「カッコつけてるだけだな」とか「本心は別にあるな」とか。「誰かに良いと言われたいだけなんだな」とか「憧れの人の真似をしているだけなんだな」とか。色々なのだがとにかく、そういう違和感のあるものはどうしても「なんか違うな」と感じるもので、けれど厄介なのは多くの人はそれを自分の本当の言葉ですと思い込んでいるところなので、誰かに「違うよね」と指摘されてもなかなかどこがどう違うのか気がつくこともできないし、大抵の人は気分を害する。自分で編み出した自分の言葉(と思い込んでいる)なのに完全に否定されるのだから、憤慨するのも仕方がない。

この世の全ての人が自分の言葉を正直に表出しなければならない訳じゃないし、そんなことまで考えなくても楽しく心地よく生きられると思うので、これは全くもってどうでもいい話かもしれない。でも私にとってはどうでも良い話では済まされなくなってしまったし、無視もできない。自分で自分に対して「なんか違う」と思ってしまったが最後、違和感が消えるまで探すしかなくなってしまう。

食べていくために、社会的に生き残るために、考えたことや書くことや言おうとしたことに瞬時に多重忖度フィルターがかかるようになっていた過去の私は、その厳重に警備された自分自身への言論制圧システムを解除するのに、時間がかかっている。
忖度しないからと言って、思いやりのない言葉を吐くわけではないし、誰かが傷つくようなことを言っていいとは思わない。何かを否定したいとは思っていないし、なるべく穏便にとも思っている。それでも自分自身に対しては正直でありたいとも思っている。相手や対象物にその思いをどのようにぶつけるかは、また別の話な気もしている。
最も問題なのは、自分の本心(と思い込んでいる部分)ですらも瞬時多重忖度フィルターがかかり始めていたことだった。それを世の中では「洗脳」と呼ぶのかもしれない。
私は常に仕事上安心安全なコマとして安定の仕事をしてきたつもりだし、それはそれで頑張ってきたからよかった部分もあるとは思っている。今から急に反抗期がきて反逆時のような行動をしていくのかと言われるとそれも全く違う。仕事はもちろん、安心安全に安定の仕事をしていきたいと思っているしそれは私がやりたいことだから問題はない。大人なんだから社会と調和しながら仕事をして生きていくことも重要だとも思っている。
ただ、自分の魂からの言葉を見失うほどフィルターにぐるぐる巻きにされてしまうと、気づいた時には手遅れで呼吸困難になりますよ、ということなのだ。

私は自分の生き方について考えたり、自分の思考を俯瞰したり、自由に自分の思いを書き連ねたり、根源的なテーマについて自分の心の底に問うたりする時には、瞬時多重忖度フィルターを解除したい。
自分の言葉で考えたい。魂から出てしまう大声に慌てて蓋をして無かったことにし続けたら、どんどん悲しくなってきて、沈没したり爆発したりする。だから人は時々心が疲れて病気になったり、休まなければいけなくなったりするんだろうか。
ずっと蓋が開きっぱなしだとそれはそれで、生きづらいかもしれないし、社会では何だかちょっと大変かもしれないのだけれど、「社会的な私お休みの日」という時に時々蓋を開けてかき混ぜて手間暇かけてあげると良いのだろうか。魂の言葉は味噌とか糠床みたいなものかもしれない。

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