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📖『Blue』📖

小説を読み始める時、最初の数ページで物語の時代や場面設定、登場人物の特徴を掴もうとする。作者の方もおそらく、読み手が物語に没入しやすいように、状況や人物を頭に思い描きやすいように書き進めている場合が多いのではないだろうか。登場人物は女性か男性か、何歳くらいか。場所は都会か田舎か日本なの海外なのかはたまた架空の国と時代なのか。物語のメインの舞台となるのは学校なのか会社なのか。

川野芽生の『Blue』を読み始めると、人魚姫の新解釈の劇を上演しようとしている同学年の学生たちの会話であろうことはすぐに把握できるのだが、読めども読めども登場人物たちの輪郭がぼやけたまま話が進んでいく。
読み始めた時、そのことに読みづらさを感じただけだったのだが、読み終えてみて、まさかそれこそが作者の大きな問いかけだったのではなかろうかと気がつき、何重にも隠された社会と私たちの思い込みへの投げかけにゾッとした。

多くの小説では、そこに登場する登場人物は、その名前や容姿の説明、言葉遣い、状況などから即座に性別が特筆せずともすんなり理解できるように書かれている。そのことにこの『Blue』を読み終えて気付かされた。

『Blue』の主人公が生まれた時の戸籍上の性別は男性であることは、物語を読み進めないと理解できない。他の登場人物も巧妙に、最初は名字だけで書かれたままであり、言葉遣いも強い女性性を感じるものでも男性性を感じるものでもない。
私たちは小説の中にすら、女性なのか男性なのかトランスジェンダーなのか、とにかくどこかに分類したがっており、無意識のうちに即座に分別を完了させたがっており、それができないと強い違和感を覚えてしまうようになっているらしい。

この小説には他にも、トランスジェンダーが現代社会で生き抜くために晒される現実的な困難や悩みを描きながら、それだけではなく、「憐み」というもう一層のテーマも深く流れている。自分が多数派で強者であると少しでも感じる時、良くいう「上から目線」と言う態度に近いものが発生して「憐み」になり、エゴになる。

ある時は少数派として生き、ある時は多数派のふりもできるような生き方を選択することになった主人公は、次第に自分自身の中にも他者への決めつけや思い込みによるバイアスがあったことに気がつく。

人間関係を構築する中で、人は他人をわかりやすいラベルで分別したがるし、社会はイレギュラーを嫌うことが多い。「一つ一つ無限のバリエーションがある個別の対応なんてしていられないのでAかBかのどちらかにしてください、どちらでもないと感じているのかもしれませんがどちらかと言えばこっちかなと言うのでもいいんでとにかくAかBかどっちかにしてください」と言うのが今の社会なのだ。

主人公の真砂の悩みはもちろん軽いものではなく、社会に出るまでの抱える問題を見ても何十苦とも言える出来事が待ち構えている。しかし登場人物たちの間に流れる空気感は極めてニュートラルであり、声高に何かに立ち向かうようなものではない。
深く同情するわけでも激しく嫌悪するわけでもなく、何か感情が大きく沸騰するわけでもなく、「ああ、あの人はそういう感じね」という、無視とは全く違う、無関心というのとも少し違う、ある意味檻の外から無感情に眺めるような、俯瞰したような空気感が常に流れているこの感覚は、一昔前にはなかったけれど今は確実にあちこちに存在する人との新しい距離感のように思う。
ここに「受け入れている」という言葉を選んでしまうと、もっと深い理解を含んでいるような感覚にもなり、少し違和感がある。最も近いのは「This is a pen.これはペンです。」と言われて目の前には疑いようもない普通のペンがあり、「はいそうですね」と言うだけで終わる。この感じである。淡々と、事実が目の前にあり、「はいそうですね」以上終わり。

同級生に1人も真砂のような人がいない(もしくは本当はいたのかもしれないがその存在が目立つような状態で表に出ることがない、それが許されていない)時代に学生時代を過ごしてきた私は、真砂とその周りが醸し出す空気感に現代っぽさを感じずにはいられない。

多分、私たちの時代は文句を主張する隙を与える間も無く親世代が構築してきた鋳型に子供達を強制的に詰め込んで大量生産してきた時代だったのだろう。そしてその次や、そのまた次の世代というのは、自分らしく自由でいいんだよと言われている割には社会に出たら旧式システムしか存在しておらず、話が違うんだけどと思いながら強い違和感に苛まれつつも、旧式システムに従わないと資本主義社会で生きていけないという、理不尽さに苦しんだり諦めたりしているのかもしれない。


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