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2011年11月NHK杯の「愛の夢」について、情熱の原点に立ち返ること

2024/03/15 そもそもなぜ、2014年のあの頃に、2011年11月NHK杯の「愛の夢」について証言されねばならなかったのか。それは、それによって同胞(日本人)への信頼が取り戻されるからであった。あの時に、あの場所で、「それ」が起きたのだから。この最初の情熱の地点に立ち返る必要がある。 この立ち返りがないせいで、人はしばしば肝心なものを見失い、本来の命の力を失ってしまうようである。 2014年2月のソチオリンピックで、あなたは「それ」を感じた。ならば、その心で、2

    • 見せかけの「古典的な重み」の苦しさ。「リズムがおかしくなった」体に再び命が吹き込まれるために。

      「人為的に作られた古典」。「新しいファイナルファンタジー7」の「クラウド」などが、新しいものでありながら「古典の重み」のようなものをまとっている。それは「人為的に設定された規範」である。それに従う人々の存在によって支えられる「権威」が、その特殊な空間内に「秩序」をもたらしている。 それに本物の価値があるわけでは全くないが、「それ一つしかないこと」によってのみ、それは「権威」を得ている。技術的には高度な洗練によって「古典の重み」のような雰囲気をまとっているから、精神的に貧しい

      • 「ファイナルファンタジー11」のこの絵を思い出しながら書いていた。「複数の異なるものたち」がその「基盤」の上に乗っかって、そのように生きている。そういう「基盤」が彼らの「だいじなもの」であることを意味する。

        • 「自分の依って立つところ」を「狭い一つ」(単一のアイデンティティ)に人間が勝手に限定するからだめなんだ、と直観した。「基盤」にある程度の「幅」がないと強くない。キムタクも野村哲也も、だからだめだった。先人である天野喜孝などの力の源である「基盤の広さ」を無視し、それに習わなかった。

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        2011年11月NHK杯の「愛の夢」について、情熱の原点に立ち返ること

        • 見せかけの「古典的な重み」の苦しさ。「リズムがおかしくなった」体に再び命が吹き込まれるために。

        • 「ファイナルファンタジー11」のこの絵を思い出しながら書いていた。「複数の異なるものたち」がその「基盤」の上に乗っかって、そのように生きている。そういう「基盤」が彼らの「だいじなもの」であることを意味する。

        • 「自分の依って立つところ」を「狭い一つ」(単一のアイデンティティ)に人間が勝手に限定するからだめなんだ、と直観した。「基盤」にある程度の「幅」がないと強くない。キムタクも野村哲也も、だからだめだった。先人である天野喜孝などの力の源である「基盤の広さ」を無視し、それに習わなかった。

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          そして2005年に現れた浅田真央ちゃんが熱狂的に迎えられたことの背景に、この文脈を私は見てきた。当時の「日本の演技」の悲惨さに失望していたからこそ、「若い日本人の生き生きした演技」に人々は喜んだ。もちろん真央ちゃんだけでなく、フィギュアスケート界の全般にそういう文化が生きていた。

          そして2005年に現れた浅田真央ちゃんが熱狂的に迎えられたことの背景に、この文脈を私は見てきた。当時の「日本の演技」の悲惨さに失望していたからこそ、「若い日本人の生き生きした演技」に人々は喜んだ。もちろん真央ちゃんだけでなく、フィギュアスケート界の全般にそういう文化が生きていた。

          そのような状況で、2003年の末に窪寺昭が実写版「美少女戦士セーラームーン」で「クンツァイト」として現れた。それが紛れもなく本物の正統的な演技であることがわかった。それが受け継がれている。失われたと思われていた正統性、いわば「王の血筋」が、まだ生きていたことの安堵と喜びであった。

          そのような状況で、2003年の末に窪寺昭が実写版「美少女戦士セーラームーン」で「クンツァイト」として現れた。それが紛れもなく本物の正統的な演技であることがわかった。それが受け継がれている。失われたと思われていた正統性、いわば「王の血筋」が、まだ生きていたことの安堵と喜びであった。

          要は「リズムがおかしくなっている」。日本の大衆文化の全般に、これが2003年頃までに感じられるようになった。日本の若い役者たちが、しかるべき役者の息遣いやリズムなどの技を十分に身につけないまま、演じるようになった。演技に命が吹き込まれないようになった。キムタクもこの流れに属した。

          要は「リズムがおかしくなっている」。日本の大衆文化の全般に、これが2003年頃までに感じられるようになった。日本の若い役者たちが、しかるべき役者の息遣いやリズムなどの技を十分に身につけないまま、演じるようになった。演技に命が吹き込まれないようになった。キムタクもこの流れに属した。

          全般的にそのように「カルト宗教」や「ファリサイ派」のように日本の文化の主流はなりつつある。真央ちゃんの新しいアイスショーに感じられるのも、そういう見せかけの「古典的な重み」である。つまらない優等生の虚栄心や「誇り」によって支えられた「権威」の悪い感じが、その奥から常に漂ってくる。

          全般的にそのように「カルト宗教」や「ファリサイ派」のように日本の文化の主流はなりつつある。真央ちゃんの新しいアイスショーに感じられるのも、そういう見せかけの「古典的な重み」である。つまらない優等生の虚栄心や「誇り」によって支えられた「権威」の悪い感じが、その奥から常に漂ってくる。

          そのような「インチキな重み」が日本を支配している。テレビ番組のナレーションで常に不自然な「ウエイト」がかけられるようになっている。「プロジェクトX」がその手の最たるものであった。それが最近「復活」したというが、以前と全く変わらず「重み」がかかったナレーションに私は苦しさを感じる。

          そのような「インチキな重み」が日本を支配している。テレビ番組のナレーションで常に不自然な「ウエイト」がかけられるようになっている。「プロジェクトX」がその手の最たるものであった。それが最近「復活」したというが、以前と全く変わらず「重み」がかかったナレーションに私は苦しさを感じる。

          それに本物の価値があるわけでは全くないが、「それ一つしかないこと」によってのみ、それは「権威」を得ている。技術的には高度な洗練によって「古典の重み」のような雰囲気をまとっているから、精神的に貧しい者たちが一定の「誇り」をもってその作業にあたることができる。優等生の虚栄心を満たす。

          それに本物の価値があるわけでは全くないが、「それ一つしかないこと」によってのみ、それは「権威」を得ている。技術的には高度な洗練によって「古典の重み」のような雰囲気をまとっているから、精神的に貧しい者たちが一定の「誇り」をもってその作業にあたることができる。優等生の虚栄心を満たす。

          「人為的に作られた古典」。「新しいファイナルファンタジー7」の「クラウド」などが、新しいものでありながら「古典の重み」のようなものをまとっている。それは「人為的に設定された規範」である。それに従う人々の存在によって支えられる「権威」が、その特殊な空間内に「秩序」をもたらしている。

          「人為的に作られた古典」。「新しいファイナルファンタジー7」の「クラウド」などが、新しいものでありながら「古典の重み」のようなものをまとっている。それは「人為的に設定された規範」である。それに従う人々の存在によって支えられる「権威」が、その特殊な空間内に「秩序」をもたらしている。

          現代語の「リズム」によって古典語に命を吹き込むことを考えつつ、古典ギリシア語の「ニューエクスプレス」が待望されることについて

          最近『ニューエクスプレスプラス 現代ギリシア語』で発音の練習を始めた。それには明確な目的があった。古典ギリシア語を私は以前に『CDエクスプレス 古典ギリシア語』で勉強したものの、自分の発音にいつまでも確信がもてず、それでその言語に苦手さをいつも感じている。それを何とかしたかった。 『CDエクスプレス 古典ギリシア語』のCDに収録されている音声は、明らかに日本人の男性一人だけによるもので、それを私は不安に思った。いかにも日本風の癖のある発音で、そしていかにも大学で古典を教えて

          現代語の「リズム」によって古典語に命を吹き込むことを考えつつ、古典ギリシア語の「ニューエクスプレス」が待望されることについて

          しかし「今の新しいファイナルファンタジー」の問題は、「新しい方」から「古い方」へ「戻っていく回路」がなく、その道が徹底的に断ち切られていることにある。まさにそのゆえに、私は「新しい奴ら」を嫌っている。自分たちのものが絶対的にすぐれているとでも思っているのか。全然そんなことねえぞ。

          しかし「今の新しいファイナルファンタジー」の問題は、「新しい方」から「古い方」へ「戻っていく回路」がなく、その道が徹底的に断ち切られていることにある。まさにそのゆえに、私は「新しい奴ら」を嫌っている。自分たちのものが絶対的にすぐれているとでも思っているのか。全然そんなことねえぞ。

          そして「ファイナルファンタジー10」のキャラクターたちの居心地の悪い「重さ」は、まさに「ファイナルファンタジー9」の「原点回帰」に起因するのではないか、と直観した。下手に「古典」をやったせいで「重たくなった」。それに対抗して「現代」が「軽く」し、解放する。それが確かに救いになる。

          そして「ファイナルファンタジー10」のキャラクターたちの居心地の悪い「重さ」は、まさに「ファイナルファンタジー9」の「原点回帰」に起因するのではないか、と直観した。下手に「古典」をやったせいで「重たくなった」。それに対抗して「現代」が「軽く」し、解放する。それが確かに救いになる。

          今回の現代ギリシア語のことから、「ファイナルファンタジー」の歴史についても何かが見えてきた気がした。「9」ではいわば「古典語」をやろうとした(「原点回帰」)。それになじめなかった者たちが反発して、「現代語だけ」で話す「10」を作ったのだろう。これは両方のプレイを通して想像できた。

          今回の現代ギリシア語のことから、「ファイナルファンタジー」の歴史についても何かが見えてきた気がした。「9」ではいわば「古典語」をやろうとした(「原点回帰」)。それになじめなかった者たちが反発して、「現代語だけ」で話す「10」を作ったのだろう。これは両方のプレイを通して想像できた。

          同様に、現在、多くの日本人が『CDエクスプレス 古典ギリシア語』の日本人男性一人だけの、あの権威的な声を通してしか、古典ギリシア語の発音を習うことができない。この状況が人々を「正しく導かない」と感じる。「貧しさ」を感じる。希望がない。この状況に、なんかものすごく嫌なものを感じる。

          同様に、現在、多くの日本人が『CDエクスプレス 古典ギリシア語』の日本人男性一人だけの、あの権威的な声を通してしか、古典ギリシア語の発音を習うことができない。この状況が人々を「正しく導かない」と感じる。「貧しさ」を感じる。希望がない。この状況に、なんかものすごく嫌なものを感じる。