キリストの救済、その一つの真実の物語

「エリエリレマサバクタニ」
この世で最も悲痛な叫び声が、ゴルゴタの丘にこだました。悲鳴の主は、帝政ローマへの反逆者であり、のちに神の子とも呼ばれるイエス・キリストその人である。言葉の意味は「わが神、わが神、なぜ私を見捨てたのですか」。

しかしこの真意を理解するものは、イエスただ一人を除いて誰もいなかった。人々がキリストの真意を理解できなかったのは、単なる偶然ではない。この叫びには、我ら人類の父と母、アダムとイブが背負った原罪に由来する、おそるべき秘密がかくされていたのだ。
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イエス・キリストが生まれ、そして処刑されるよりも遥か昔に、我ら人類の父と母は、神によってこの世に生み落とされた。神は七日かけて天地、及びその万象を創造されたが、その内の六日目のことである。とは言え、二人は同時に生み出されたのではない。初めにその生命を得たのは、我らが父、アダムの方であった。アダムは神の思し召しの通り、エデンの園に身を置き、そこの守り手となった。神は我らが父にこの様に命じて言われた、「君は園のどの樹からでも好きなように食べてよろしい。しかし善悪の智慧の樹からは食べてはならない。その樹から食べるときは、君は死なねばならないのだ」と。

さてその後神は、アダムのために、地上にはすべての獣を、そして天空にはすべての鳥を創造された。そしてアダムは、神からの贈り物、その一つ一つに名前をつけた。一つ、また一つと名前を付けていくたびに、アダムを取り囲む世界は色づき、豊かになっていった。

しかし世界が豊かになるほどに、一つの問題がはっきりした。アダムは、世界に存在するものに一方的に名前を与えるだけで、何時までもアダムを自分という存在としては意識しないのである。神からアダムへの贈り物は、アダムが自らの外側へ関心を持つよき切っ掛けとなった。しかしそれらでは、アダムがアダムを自分自身として気にする切っ掛け、その助け手にはなり得なかったのである。

そこで神は一計を案じた。アダムに深い眠りをあたえ、アダムの体内からあばら骨を一本取り出し、その場所をアダムの肉でふさぎ、その肋骨から一人の人間を創造したのだ。この人こそが我ら人類の母、イブである。

神は眠りから覚めたアダムの元へとイブを連れてこられた。自分と同じ姿をしたイブを見た瞬間、遂にアダムは自分自身を意識するに至った。イブに名前を付ける際に、イブがアダムから構成されたことと、そのアダムこそが自分であることを悟ったからである。そこでアダムは叫んだ、「ついにこれこそわが骨から取られた骨、わが肉から取られた肉だ。これに女という名をつけよう、このものは男から取られたのだから」と。この時はじめてアダムは、アダムにとっての自分という存在に思い至ったのである。

こうしてアダムはイブを見ることによって、我が肉体であるアダムのことを意識し、またイブの方も、アダムを見ることで、アダムから創造された我が肉体であるイブを意識することができた。二人は相手を通して互いの存在にとっての自分を意識し、二人で一つであった。二人はまごうことなき夫婦であり、また互いの存在を通して自分を意識していたために、自分が裸であるのを恥じることもなかった。自分の存在が意識される際に直接見るのは、相手の裸だけであったからだ。
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さて、アダムとイブが夫婦として結ばれた後に、神が創造された野の獣の内の一匹がイブへと話しかけた。その生き物は獣の中でも一番狡猾であり、アダムから蛇という名を与えられていた。蛇はイブにこう語りかけた、「神様が君たちは園のどんな樹からも食べてはいけないと言われたというが本当かね」。そこでイブは蛇に答えた、「園の樹の実は食べてもよろしいのです。ただ園の中央にある樹の実について神様は、それをお前たち食べてはいけない、それに触れてもいけない。お前たちが死に至らないためだ、とおっしゃいました」。

すると蛇はイブをこう唆した、「君たちが死ぬことは絶対にないよ。神様は君たちがそれを食べるときは、君たちの眼が開け、神のようになり、善でも悪でも一切が分かるようになるのを御存知なだけのことさ」。こう唆されたイブは、蛇の言葉を信じる限り、食べてはならない理由が分からなくなった。智慧の実は食べるのによさそうで、また、知恵を増やすことは死ぬことと違って、如何にも好ましいことであったからだ。

とうとうイブはその実を取って食べた。そして一緒にいた夫にも与えたので、彼も食べた。すると蛇の言った通りに、二人の眼は開け、知恵が増えた。確かに蛇が言ったことは何一つ間違っていなかった。しかし、かつて神がアダムに「その樹から食べるときは、君は死なねばならない」と言ったことも、間違ってはいなかったのだ。蛇の言葉は、神の言葉の言い換えであった。

智慧の実を食べる前のアダムとイブも、互いの存在を通してしか自分を意識することはなかった。しかし知恵の実を口にした途端、二人とも相手をみることなしに、直接自分を意識するようになったのだ。この時初めて、二人は相手を見ていた存在が直接自分であることに気が付き、またそれに伴って、周りの世界も自分を中心に広がっていたことを悟った。そして自分の存在を直接意識できるようになったので、世界で起きる様々な出来事が自分にとって善いか悪いかも判断できるようになった。この時二人は、神の被造物であるだけでは決して気づけない、まさに神同様の、直接自分を捉えた上で世界を理解する視点を獲得したのだ。

全ては蛇の言った通りであったし、事実二人は知恵の実を食べても死ななかった。しかしにも関わらず、それは神がおっしゃった様に、やはり二人の死でもあったのだ。知恵の実を食べる前の二人は、互いの存在を通して自らを意識することで、他のあらゆる存在と同列の一つであれた。しかし直接自分を意識するようになってからは、自分の存在だけが例外的な世界の中心になってしまい、他のあらゆる存在の内の一つではなくなったのだ。二人の知恵が増えた瞬間に、自分の存在だけが、他のあらゆる存在がいた地点からは消えてしまった。
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さて、知恵の実を食べた二人は、先ず自分が裸であることが分かり、それを恥じた。知恵の実を食べる前であれば、自分が裸であるよりも前に、相手が裸であることを理解していたので、殊更自分だけが恥ずかしがる理由は何もなかった。しかし今は、相手がどうであろうと、よりにもよって自分が裸であることが分かってしまうので、それを恥じずにはいられなかった。そこで二人は、無花果(いちじく)の葉を綴り合わせて、前垂れを作った。

夕方の風が吹く頃、彼らは園の中を散歩されている神の足音を聞き、二人そろって神の顔を避けて園の樹の間に隠れた。神はその人に呼びかけて言われた、「君は何処にいるのだ」。彼は答えた、「貴神(あなた)の足音を園の中で聞いて恐ろしくなりました。わたしは裸だからです。それで身を隠したのです」。神が言われるに、「誰が一体君が裸だということを君に知らせたのだ。わたしがそれを食べてはいけないと命じておいた樹から君は食べたのか」。人は答えた、「あなたがわたしの側にお与えになったあの女が樹から取ってくれたのでわたしは食べたのです」。そこで神は女に言われる、「君は一体何ということをしたのだ」。女は、「蛇がわたしをだましたのです。それでわたしは食べたのです」と答える。

そこで神は、蛇と女と男に、それぞれの処置を言い渡した。蛇は腹ばいになり、塵を食らい、子孫代々にわたって女と敵対関係におかれた。蛇が女に伝えた言い方は、女と男を、神と同じ眼と被造物としての在り方の両側に引き裂いたため、女にとって蛇は否定し、迫害するものになり果てた。また、蛇の言葉も女にずっと残り続ける敵となり果てた。女には、苦痛と欲望が大いに増し加えられた。苦痛も欲望も、直接自分に感じられるものになったが故に、それがより一層自分にとって切実になったからだ。男は、一生の間ずっと食を得るために労しつつ、最後は土に帰ることになった。男も女も神と同様に、眼が開け、直接自分を捉えているにも関わらず、神とは違って世界内の一つの肉体を維持することなしには、自分も成立しないジレンマを引き受けることとなったのだ。

神の処置が言い渡されたのち、アダムはイブに、女という名のみならずイブという名も与えた。原罪を背負ったアダムは直接自分を捉えるため、もはやイブを男から取られた女としてのみ見ることはなくなったからだ。ただし、これまで与えてきた他の名とは、女という名の付け方が大きく異なったように、イブという名も特別な付け方であった。アダムは、神の処置によって直接自分を捉える個人となったうえで、女にイブという名を与えたことで、イブもアダム同様のジレンマを引き受ける個人と見なされたことを明らかにした。イブという名は、直接自分を捉える一つの肉体だけを指すことで、女が全ての生けるものの由来としての母になったことを教えたのだ。

こうしてアダムとイブはエデンの園を追放された。その後、彼らの子孫も、神と同じ眼と被造物としての在り方の両側に引き裂かれたまま、原罪を背負い続けた。子孫は生まれたときから引き裂かれていたために、自らに課された原罪を理解することもかなわなかった。その状態が数千年続いたが、遂に原罪をはっきりと意識し、それに絶望する出来事が起きた。それが神の子イエス・キリストの処刑である。
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神の子であるイエス・キリストは、聖母マリアから生まれたのち、様々な奇跡をもたらし、多くの人々を救った。水をぶどう酒に変え、盲人の眼やハンセン病を癒し、死者を蘇らせた。その他、彼がもたらした奇跡の数は計り知れない。また、彼は未来で自分がどうなるかも見通し、予言していた。弟子であるユダが自分を裏切り、最後自分は磔刑に処されて死ぬことも、神の子である彼には分かっていた。しかしにも関わらず、彼は十字架にはりつけにされて死ぬ少し前に、絶望の叫びをあげなければならなかった。その叫びが発せられる必然性が、初めて原罪の自覚を人々に呼び起こしたのである。

イエス・キリストの悲鳴である「エリエリレマサバクタニ」(「わが神、わが神、なぜ私を見捨てたのですか」)は、単にキリストという一個人が苦しんでいることを叫んでいたのではない。その真意は「どうして十字架に打ち付けられて苦しんでいるこの男がよりにもよってこの私だったのか」であったのだ。今やどの人も直接自分を捉えるが、そうやって直接捉えた自分が、よりにもよって十字架に打ち付けられた男であったという如何ともしがたい事実への絶望だったのだ。

確かに神はイエスも含めた全ての人々と共にあった。しかしたとえ苦しむキリストが神と共にあろうとも、苦しむこの私が神と共にあることは叶わなかった。何故なら、苦しむこの私と共に神があることは、苦しむイエス・キリストと共に神があることと何も変わらないからだ。変わらないからこそ、神がキリストと共にあればあるほどに、キリストがこの私であったことへの絶望が神に伝わることはなかった。

そして神と同様に、この絶望が他の人々へ伝わることもなかった。イエスを神の子と信じていた人やイエスの弟子達でさえ、イエスという個人が特別であると信じることしかできなかった。この叫びを聞いたある人は言った、「待て、エリヤ来りて、彼を下ろすかどうか、私たちで見届けようではないか」。この言葉も、キリストという個人が救済されるかどうかを確かめようとしているものであり、この私がキリストであった絶望には届かない。キリストを見届ける人達に彼の真意が伝わる途は残されていなかった。

もはやイエスが人々に向けて伝えられるのは、苦痛を知らせる悲鳴だけであった。ただそこで苦痛が起きていることしか、キリストと人々は共有しえなかったからである。大声を上げたのちに、キリストは息絶えた。彼は、神にも人々にも理解されない絶望を抱えたまま処刑されることによって、人類が背負った原罪のどうしようもなさを見事に示して見せたのだ。
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ところが処刑の三日後に、奇跡が起きた。処刑されたイエス・キリストが蘇ったのである。蘇った彼は、自分が処刑されて一度死んだイエス・キリストであることを理解した。それと同時に、キリストが背負った原罪は贖われたのである。彼は、自分をキリストだと理解する際に、キリストという個人にとっての自分が、他ならぬ自分自身のことだったのだと悟った。それにより、自分は誰でもありえた中で、たまたま例外的にイエス・キリストであったのではなく、初めからキリストという個人が他ならぬ自分自身であることに、自己理解が変化したのだ。

かくしてイエスの心から「エリエリレマサバクタニ」という叫びは消え去った。自分は無数にある自分の内の例外的な一つではなく、初めから唯一の存在にとっての自分でしかなかったからである。そしてその唯一の存在であるキリストが蘇ることで、キリスト個人の苦しみの声すらも必要なくなったのだ。キリストは自分が死ぬ前に何人か死者を蘇生させたが、彼は原罪を自覚した上で自分が蘇ることで、自己理解を変化させつつ、それを個人の救済と一致させてみせたのだ。

その後キリストは弟子たちの元へ訪れたが、弟子たちは、死んだキリストが蘇ったという奇跡を初めは信じ切れなかった。そこでキリストは、弟子たちの信仰心のなさと心の頑ななる様を責め、次の様に言われた「全世界を巡りて凡ての造られしものに福音を宣べ伝えよ。信じてバプテスマを受ける者は救われるべし、されど信じない者は罪に定めらるべし。信ずる者には此等の徴がともなうだろう。即ち我が名によって悪鬼を追い出し、新しき言葉を語り、蛇を握るとも、毒を飲むとも、害を受けず、病める者に手をつければ癒えるだろう」。

後に弟子たちが伝えた福音と共に、人々はキリストが蘇ったことを知った。そして「エリエリレマサバクタニ」と叫んで死んだキリストが蘇ったことを理解する過程で、キリストにとっての自分という在り方、ひいては唯一の個人にとっての自分としての在り方を、それと気づかないままに原罪による自己理解からの変化も含めて受け入れていった。またそうなることで、人々もキリストと同じ仕方で、自己理解が変化し、原罪が贖われた。

人々がキリスト同様に原罪が贖われてからは、かつて蛇がイブに言った善悪の話は、例外的な自分にとっての直接的な善悪でなく、それぞれの人にとっての善悪の意味へと変わった。そして、それぞれの個人にとっての善悪を信じて善に貢献する者と、それを信じず善に貢献しない罪人と呼ばれる者とに分かれた。すべては福音とキリストの復活のなせる業であった。

我々人類は今もなお蛇を握りしめており、自分の存在だけが例外的な世界の中心である様な視点に立ち続けている。しかしキリストが処刑された後に復活してからは、例外的な自分が、同時に特定の唯一の個人にとっての自分でしかなくなったのだ。我々が自らの記憶と人格にとっての自分を理解している以上は、もうこの世に「エリエリレマサバクタニ」がこだますることは二度とないだろう。

*本テキストは以下の著作より、創世記とマルコ伝福音書を適宜参照している。
・関根正雄 訳『創世記』、岩波文庫、1956年
・『新約聖書・文語訳』、岩波文庫、2014年

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