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とりとめなき61

久し振りの経路で家に帰る。ここ最近はというと上司や同僚に送ってもらうことが多かったから新鮮だ。紫陽花の庭 ─昨年の六、七月頃は朝夕横目に眺めていた─ が土に帰していた。表札も外れ、あの鮮やかな緑に溢れた敷地はがらんどう。なんだか寂しいものだ。

«Autoportrait (Tamara in a Green Bugatti)»
Tamara de Lempicka(1928)

レンピッカの«自画像»を新聞のバックナンバーで見掛けた。私にとっては五木寛之『ヤヌスの首』の表紙になっている作品、という印象が強いのであるが(帯に踊る「さらば’30年代の夢よ!」とともに)、改めて見返すと惹き付けられるものがある。この類の冷ややかさとアンニュイな雰囲気、眺めていると不思議な感覚に陥っているのだ。

昨日は直ぐに眠ってしまったから早起きだ。帰路を辿るように歩く。風こそ強いが青空は気持ちが好い。そう、このバスに乗ってる間に、本を読んだり、なんなりしていたのだ。すし詰めの車内に揺られて、それが当たり前になり、忘れていたわけだ。自分の習慣は自分で護らなくてはならない。もっとも、習慣の外側に彼是があるのであるが。

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