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月と六文銭・第二十章(03)

 韓国大統領の訪日警備は悪夢と言わざるを得なかった。
 日韓関係が戦後最悪で、国際会議場では首脳同士はそっぽを向いて会話もしない状況だった。
 しかし、水面下で情報コミュニティ同士は協力し、要人警護に神経をすり減らしていた。

<前回までのあらすじ>
 内閣府内閣情報室直下に位置する対テロ特別機動部隊、別名「鈴木班」は、韓国大統領への狙撃対策を練った。日本国内で南北朝鮮のスナイパーが入り乱れる展開も考えられたため、慎重に検討を重ねていた。
 捜査の対象になっていたのが、安政大学の留学生イ・ソンホンとチェ・ミンハというカップルだった。照会の結果、イ・ソンホンがれっきとした大韓民国民だったことが判明し、捜査が振出しに戻るか巨大な陰謀へとつながっていくかの瀬戸際に来ていた。

曲率捷径きょくりつしょうけい

03
 鈴木も江口も戸惑いを隠せなかった。

「まさか、再び漢江ハンガンか?
 そんなことは…」

 鈴木が口にした漢江という言葉に、江口も高田も眉間に縦じわを作り、互いを見た。

「勇作、パク現大統領の支持率はどうだ?
 直近の世論だ。
 党内、国会、軍部との軋轢はどう評価する?」
「はい、全国調査の結果は先月の26%から18%に急低下しています。
 元々、父の代から対立色の強い光州を中心とする南西部は一桁で、最も高かった昨年春でも12%です。
 党内と国会は掌握していますが、父との違いを出すため、軍とは少し距離を保ってきました。
 NIS(エヌアイエス=国家情報院)院長とは“良き緊張関係”にあるといわれています」
「仮にだが、現大統領が職務を続けられなくなった場合、現国務総理(首相)のファン・キョアンが後継大統領として、祖国党と軍を掌握できそうか?」

 江口はプロジェクタで現国務総理ファン・キョアンの顔と経歴を表示した。

「現大統領の信頼は厚く、党内でも実力者ですが、若い頃は病弱で持病のため、兵役経験はなく、軍との関係は未知数です。
 政治家になる前は検事で、検察庁の公安部長時代にNIS盗聴解明を指揮し、NISの作戦部長が逮捕されています。
 クリーンでフェアな人物との評価のようで、その後NISとの関係も良好です。
 昨年の国務総理就任前にはNIS院長にとの声が上がっていますが、NIS内からは特段の抵抗や反対の声はなかったようです」

 目を閉じて江口の説明を聞いていた鈴木は重い口を開いて話した。

「現大統領の父・パク・チョンソ大統領は、元は軍人でクーデターを起こして、韓国の政党を力づくで潰し、挙国体制で韓国の近代化を進めた人物だ。
 今のサムソンやLG等のエレクトロニクス企業、ヒュンデ重工業等のメーカーの育成を進め、後に「漢江ハンガンの奇跡」と呼ばれる経済成長を一代で実現させた剛腕政治家だった。
 その過程で、大口生産資本への集中投資が進められ、中小企業の切り捨てが起こった。結果としての農村の若者の都市部への流出と、自身の出身母体である軍部の軽視が、“反パク勢力”として結束し、とうとう大統領就任12周年パーティーでの暗殺に至った」

 江口も高田も鈴木の話を興味深く聞いていた。

「記念パーティーは漢江のクルーズ船を貸し切って開催されたものだったが、スピーチが始まって1分ほどして大統領は頭を撃ち抜かれて死んだ。
 娘、つまり現大統領もその場にいたといわれている。
 皮肉だったのは自ら作ったKCIA(韓国中央情報部、現NIS)と出身母体である韓国軍との共同作戦で暗殺されたことだ。
 スナイプの引き金を引いたのは当時軍の狙撃指導教官、今のムジゲ部隊のトップだ。
 大型クルーズ船が漢江の曲がりくねった水路で大幅に減速せざるを得ないタイミングを活用したそうだ。
 後に“小舟作戦”あるいは“ハンガンの小舟作戦”と呼ばれるようになった事件だ」

 江口が何か言いかけたが、高田が先に口を開いた。

「するとイ・ソンホンとムジゲの2名はどうなるのです?
 イが軍の意向を受けて大統領を狙い、ムジゲの2組が彼を阻止する。
 我が国は知っていながらどちらにも手を出せず、狙撃と阻止を見守る」

 そこで江口が手を上げて高田を遮った。

「友朋国として知らせて、向こうの処理は向こうに任せ、我が国内にいるイについては、少なくとも大統領滞在中は拘束するなり、やり過ごす方法はあるかと」
「飲み屋でケンカ騒ぎを起こすとか、綾乃にイを誘惑させるとか、ということか?
 早すぎたら、我々の捕捉していない別の狙撃手が送り込まれるぞ。
 しかも、1人とは限らないし。
 韓国政府には同じ部隊の他の狙撃手の行方を確認するよう伝えてはあるが、軍自体が関与しているとなると、どこまで正確な情報を出してくるか…」

 鈴木は腕を組んだまま続けた。

「イの監視には準一も加わってくれ。接触した人間をすべて洗え。
 勇作は大使館チャネルを通じて、今、イを追っているが、場合によっては2、3日以内に何らかの形で身柄を拘束する可能性を伝えてくれ。
 穣から武器の入手に関する情報は得られていないが、既に国内に届いていると考えられる」
「了解です」

 高田も江口も立ち上がり、それぞれのフロアに向かった。大統領が飛び立つ日曜日までの1週間、いっ時も気が抜けない状況だった。

 江口は自分の部屋に戻り、コンタクト先に暗号メールで連絡した。

 高田は常時携帯を許可されている1911型の拳銃を机に置き、シャワーを浴びた。戻ってきて、下はパンツだけの姿で、机の上の1911型をバラバラにして部品を一つ一つ確かめ、また順番に組み立てた。ほとんどの拳銃を5分程度でバラシて組み立てられるのが特技だったが、自分を落ち着かせるプロセスでもあった。
 次に、普段は右脛に着けているナイフをケースから取り出し、刃の研ぎ具合を見た。
 そして、寝る前の最後の習慣は、クラヴ・マガの基本動作とストレッチだった。これはイスラエルに研修に行った時に習得したもので、日本でも鍛錬を続けていた。

 部屋の電話が鳴ったので、鈴木はいぶかしげに取るとフロントからだった。

「鈴木様、フロントでございます。
 ただ今、鈴木ユナ様とおっしゃる女性がフロントにいらしておりまして」
「ありがとう。
 代わってもらえますか?」

 どうぞと言ってフロント係は受話器を鈴木ユナと名乗る女性に渡した。

「あ、お父様、今日お戻りだったのですね!
 お部屋に上がってもいいですか?」

 ユナはにっこり笑って受話器をフロント係に渡した。係は受話器を耳に当て、鈴木から“娘に部屋番号を教えて、カードキーを渡してくれ”との指示を聞いた。係は受話器を置き、急いでカードキーを用意して、ユナという大学生っぽい女性に渡した。

「本日のご宿泊は802号室です。
 右奥のエレベーターからどうぞ」
「ありがとうございます」

 ユナは係からカードキーを受け取りながら、もちろん802号室よね、と思った。係に聞こえたかは不明だったが、ユナは“ありがとうパパ”と言ってフロントを離れ、エレベーターに向かった。
 ユナは右奥のエレベーターで8階まで上がり、エレベーターを出て右に進んだ。804号室まで来る間に片足ずつサンダルを脱ぎ、左手に持って、802号室の前でドアにカードキーをかざした。カチッと音がしてロックが外れると同時にスッと入室した。
 入ってすぐ左手にコート掛け、右に姿見、短い廊下の先の左手にテーブルセットが見えた。小型のプロジェクタとノートPCが乗っている。右は横に開くタイプのスライドドアで、その奥がベッドルームだろう。ユナから見て正面がベランダということは、右手前がバスルーム。窓辺でノートPCに向かっていた父に気づかれないように爪先立ってサッとバスルームに入った。
 鈴木は少しだけ画面から目を上げ、目の前の窓に映るバスルームドアが閉まる様子を見ていた。

 ユナはバスルームのドアが閉まった瞬間に灯りを点け、ワンピースを脱ぎ、ストッキング、キャミソール、ブラジャー、パンティーを素早く取ってバスタブの中に立った。シャワーを顔から浴びて、髪を洗い、体を上から下まで丹念に洗った。片脚をタブの縁に乗せ、シャワーヘッドをステイから取って、女性器を丁寧に洗った。
 髪を乾かすために中型のタオルで頭を包み、体はピンクのキャミソールだけを身に着け、ユナは鈴木の斜め後ろ、ベッドの縁に座った。
 PC画面の先のガラスにユナの姿が映っていたのを鈴木は確認していた。入力を続けながら鈴木が聞いた。

「学校はどうだ、ユナ?」
「どうだろう?
 今の学生は真面目で、騒ぐけどバカ騒ぎはしないし、アルバイトもすれば、資格の勉強もしてるよ。
 結構キツキツで本当の意味で遊ぶ余裕なんてないみたいね」
「そうか、不況が20年以上も続くと、どこにも余裕なんてなくなるんだね」
「外国人学生はまだマシって感じよ」
「お前のその化粧は、なるほど、映えるな。
 日本人も韓国人も骨格や顔の感じが元々それほど違わないと思っていても、化粧の仕方でずいぶんと変わるものだな」
「本当ね。
 顔が小さく見えるし、着ている服次第で足が長く見えるのよね、不思議と」

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