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五日目 令和元年五月三日 十三時半頃

 東海道中有松日本橋 満願大成就膝栗毛。五日目 令和元年五月三日 十三時半頃。遠江國 日坂宿。

【上段左】丘の裾の向かって広がる茶畑。空が澄んでいれば富士山が見えそう。方向は正しいか。

【上段中】佐夜鹿一里塚跡。傍らで街道歩きの夫婦が昼飯を食べていた。二言三言言葉をかわす。袖触れ合うのも他生の縁なので、こういう場合はなるべく話しかけるようにしている。

【上段右】扇屋。江戸時代からある店。ちょうど昼頃だったので、人が結構いた。

【中段左】この店の女将が出す水飴。一本百円。前回、前々回に引き続き三度目の飴。この女将はこの店の近所で生まれ育ったそうで、店の先代の跡を継いで店を続けているらしい。飴はここではなく、別のところで作っているとのこと。

【中段中】飴の名前は「子育飴」。

【中段右】名古屋から歩いてきたと話をすると冷たい緑茶を出してくれた。客がちょうど途切れたのでいろいろと話しをした。この峠を東へ少し降りたところで天気がいいと富士山が見えるらしい。楽しみにしていたが、この日は見えなかった。

【下段左】江戸時代に描かれた扇屋。尾張藩士の高力種信(猿猴庵)が熱田から品川の名所名物を描いた。「東街便覧図略」と言う。私が東海道を歩きながら写真を撮って、フェイスブックに投稿するのと似ている。看板には「お(御)あ(阿)め(免)屋」とある。欄外には「飴の餅店」と解説してある。飴の餅とは焼き餅に水飴を付けたものだったようだ

【下段中】久延寺の小夜の中山夜泣石伝説の説明看板。手前西にあった夜泣石の縁起が書かれている。

小夜の中山に住むお石という女が菊川の里へ働きに行っての帰り、中山の丸石の松の元で腹が痛くなり苦しんでいた所、轟業右衛門と言う者が通りがかり介抱していた。しかしお石が金を持っていることを知ると金を奪って逃げた。

【下段右】その時お石は懐妊していたので、傷口から赤ん坊が生まれた。お石の魂魄は傍にあった丸石にのり移り、夜毎泣いた。その石がコレというこということである。

 掛川市は、この伝説の夜泣石は別のところにあるものが本物としている

 傷口から生まれた子は音八と名付けられ、この久延寺の和尚に飴で育てられた。飴で育てられたということに因み、峠の飴屋の水飴を「子育て飴」と言うようになった。

 お石の子、音八は立派な若者となり大和国の刃研師の弟子となった。ある日、そこへ轟業右衛門が刃研ぎに来た折、刃こぼれがあるので音八がその訳を聞いた所「去る十数年前に中山の丸石の付近で妊婦を切り捨てた時に石に当たったのだ」と言った。音八は母の仇だと分かり名乗りを上げ、恨みを晴らしたと言う

 その後、この話を聞き同情した弘法大師が、石に仏号を刻んだと言われている

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