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40 屋台千金

屋台で飲むのが好きなんである。というか、屋台で飲むのが嫌いな人なんているんだろうか? 

私鉄沿線のとある街の夕暮れ。商店街では夕飯の買い物に出てきた主婦と、仕事を終えて家路を急ぐサラリーマンが交錯する。駅から少し離れたところのガード下には、小さな屋台が店を開いている。大きな赤提灯の向こうに、丸まったグレーの背中がふたつ並んでいる──。

屋台の飲み屋に入るなんて、慣れないと勇気がいるかもしれない。ぼくも最初はそうだった。でも、ぶ厚いドアで閉ざされたスナックじゃあるまいし、屋台は店の様子も丸見えだから気にすることはない。屋台はホッピーとは違う。ナカもソトもないのだ。

それでも不安だという人は、とりあえずラーメンの屋台から始めてみよう。席に座って「ラーメンちょうだい」と言えばいい。たいていの屋台ラーメンには日本酒があるので、さりげなく「あ、お酒をもらおうかな……」なんて付け加えれば、ほら、もうアナタは「屋台で酒を飲む人」だ。

ぼくが最初に屋台というものに入り浸るようになったのは、フリーのゲームデザイナーとして明大前に事務所をかまえていたときだ。冬の間だけではあるが、夜になると甲州街道沿いの歩道におでんの屋台が出没した。屋号は……たしか「うさぎや」と言った。

特別うまいわけではないが、まずいということもない。市販のおでん種が、大きな鍋の中にプカプカ浮いている。たったそれだけ。夜風に吹かれながら、そんなもんで酒が飲めるという喜びの他に何がいるというのか。

当時、自分は30代半ば。うさぎやのマスターも見たところ同じくらい。屋台が出ているのを見かければ顔を出し、歳が近いこともあってすぐに仲良くなった。「若いのに屋台を引いてるなんて珍しいね」と言うと、こうした屋台には元締めがいて、ぼくらは雇われ店主なんですよと、その世界の仕組みを教えてくれた。以後、顔を出すたびに明大前のいい飲み屋情報を交換したり、東北だか関西だか忘れたが、どこか遠くにいるという恋人の話を聞かせてくれた。

おでんというものは、たとえ弱火でもずっと火にかけていれば、次第につゆが煮詰まってくる。ちゃんとした店ならストックのつゆを注ぎ足すところだが、うさぎやのマスターは鍋に一升瓶の酒をドボドボ注いで、つゆを薄めた。その雑な振る舞いが好きだった。

ぼくが明大前にいたのは、1995年の夏から1996年の年末まで、たった1年半ほどでしかない。結婚を機に、明大前から立川へ事務所を移転したからだ。

そろそろ引っ越しの準備をしなければと考え始めていたある日、いつものように屋台の暖簾をくぐったら、知らない顔がおたまを握っていた。驚いたぼくに、新しいマスターは事情を説明してくれた。前のマスターは屋台を放り出し、遠くにいる彼女を追いかけて行ってしまったのだと。わはは、あいつらしいやと、ぼくは笑った。

東京スカイツリーがまもなく完成するというとき、その足元に流れる北十間川の遊歩道にズラリと屋台が並んだら楽しいだろうなあ、と夢想した。以前、博多を訪れたときに見た中州の屋台村を連想したのだ。あんな活気のある風景が、東京の押上にも出現したら最高じゃないか。

でも、そうはならなかった。都の条例があるのか、道路交通法に触れるのか知らないが、とにかくそれが許されない理由があるのだろう。かわりに、東京ソラマチというチェーン店の集合する商業施設が作られた。地元民のみならず、それじゃねえよ! と思った人は多いだろう。

かつて稲田堤に「たぬきや」があったとき、他にも似たような店が続々と出現したらいいのに、と思った。たぬき屋の両サイドに空き地はいくらでもあるんだから。

でも、やはりそうはならなかった。たぬき屋が出来たときとは法律が変わり、もうこの河原での出店は不可能なのだという。そして、店の老朽化と店主の高齢化を理由にたぬきやが消滅すると、あの場所はただの河原に逆戻りした。

うさぎとたぬきの化かし合いである。

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