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利き手だから上手に使えるのではなく、ずっと使ってきたから上手になったのだ

僕は左利きだ。だからボールを蹴るときも左足で蹴る。

「何で左足でそんな上手に蹴れるんですか?」

と聞かれたら、「左利きなので」と答えるだろう。

でも、これは半分合っているけれど、半分間違っている気がする。

たぶん本当は、「左利きだから、左足で上手に蹴れる」のではなく、「左足でずっと蹴ってきたから、左足で上手に蹴れる」のである。

たとえば、僕は左利きだけど、鉛筆と箸は右手で使う。これは子どもの頃に矯正されたのである。こういう人はけっこういるのではないか。

矯正したのは親の意思だが、その理由を聞いたらこう言われた。

「ひとりで書いたり、食べたりするぶんにはええけど、他人と並んで書いたり食べたりするときに、隣の人の腕とぶつかって、迷惑かけてしまうかもしれんやろ」

だから、投げたり蹴ったりは左のまま。書いたり食べたりは右になった、というわけである。

おかげで、もともと左利きであるはずの僕でも、左手で書いたり、食べたりするのは上手くできない。当然ながら、圧倒的に右手の方がうまくできる。

つまり、右手が得意なのは「右利きだから」ではなく、「右手をずっと使ってきたから」だし、左手が得意なのは「左利きだから」ではなく、「左手をずっと使ってきたから」である。

この「利き手」を「才能」に置き換えても、同じことが言えるのではないか。

「あの人は才能があるから」とよく言うけれど、実際は「誰よりもそれをよくやっているから」という場合がほとんどなのではないだろうか。

もちろん、最初の一発目で何かしらの賞を獲ったり、他の人よりずっと上手くできたり、ということはあるかもしれない。けれどもそれは、たとえば小説なんかで言えば、その小説に書かれたような問題、たとえば人間の心の機微について、その人は「ずっと考えてきた」に違いないのである。

そういうことも含めて、「向いている」「向いていない」というのは確かにあると思うけれど、「それをたくさんやる」ということの前では、そんなことは些細なことにすぎない。

さて、自分は何をたくさんやってきただろうか。これから何をたくさんやっていくのだろうか。好きだからたくさんやる、ということもあれば、仕方なくたくさんやる、ということもあるだろう。

いずれにせよ、たくさんやっていればそれなりに上手になるし、得意になる。有限の人生の中で、何をたくさんやっていくのか。それを考えてみるのは、そんなに無駄なことじゃないと思う。

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