見出し画像

自然体でやれば全て上手くいく

はじめに

こんにちは!
瞑想実践研究家の心庵まもるです。
noteでは瞑想に纏わる情報発信を行っています。
瞑想実践の方法やその結果としての効用、また瞑想に関する雑記なども書くことがあります。

内容のベースは自身の瞑想実践に基づく研究の結果をお伝えしているものです。
時々、脱線することもありますが、お付き合い頂ければ幸いです。
また、私は著作活動も行っています。

現時点では5冊著作Kindle(電子書籍)、POD(紙の本)という形式で出版しています。
また、Kindle(電子書籍)のみになりますが、「誰でも簡単活用!瞑想入門シリーズ」というシリーズものの著作が3冊あります。

どれも瞑想を起点とした日常にある様々な課題や問題と向き合うテーマです。

自己紹介がてら以下にリンクを張っておきます。
宜しければ覗いてみてください。

★超・瞑想力-悩み葛藤を楽に超えていく方法-【Kindle版】

★超・瞑想力-悩み葛藤を楽に超えていく方法-【POD版】

★人生が変わる!幸せのメッセージの受け取り方【Kindle版】

★人生が変わる!幸せのメッセージの受け取り方【POD版】

★夢が叶う!引き寄せの瞑想法【Kindle版】

★夢が叶う!引き寄せの瞑想法【POD版】

★健康の9割は心で決まる!今日から始める瞑想習慣のススメ【Kindle版】

★健康の9割は心で決まる!今日から始める瞑想習慣のススメ【POD版】

★超速で実現!自己変革の瞑想法-密教とセルフ曼荼羅の日力-【Kindle版】

★超速で実現!自己変革の瞑想法-密教とセルフ曼荼羅の日力-【POD版】

★誰でも簡単活用!瞑想入門シリーズ

何故、このように瞑想の本を起点とした執筆活動をしているのか。
その点については下記記事で語っています。

また、瞑想を広げる活動をしている理由については下記記事を参照してみて下さい。

前置きが長くなりましたが、以下より本編の記事になります。

1.自然体とは何か?

「自然体でやればいい」
よくこんな言葉を耳にします。
肩の力を抜いてリラックスする。

そんなニュアンスを含んだ響きが自然体という言葉にはあります。
それならば「リラックスしてやればいい」と言えば良さそうです。

わざわざ「自然」という言葉をつけている以上、単なる弛緩した状態を指しているわけではないでしょう。
自然とは手つかずの状態。
そこに作為が入らないことを意味します。

前人未踏の土地、あるいは状況を指して本来は自然と呼ぶのです。
では、人間に自然という言葉を当てはめた「自然体」とは何を指しているのでしょうか。

私たちは自分の意思を持って様々な振る舞いを行います。
自分の肉体に「自分の意思」という作為を入れないこと。
これが自然体の定義になります。

「自分の意思」を入れる。
それを別の表現で言えば「私が行う」という感覚があるとうことです。

「私」が行わないことが自然体であるとするならば、本稿のテーマである「自然体でやれば全て上手くいく」はどのように実現することができるのでしょうか。

2.「私」が入ると上手くいかない

私たちの行動には殆どの場合、目的があります。
自覚的、無自覚を問わず目的に応じて行動の方向性や内容が決まるのです。

では、目的は誰がどのように決めるのでしょうか。
もちろん、主体である「私」が望む通りに決めるのです。

「私」とは何でしょうか。
自明である存在のように扱われているものですが、このことは長い思想・哲学的歴史の中で議論が尽きない話題でもあります。

仏教では「無我」と言い、主体なる「私」はないと説きます。
一方でヨーガの思想では「真我」と呼ばれる真実の自己があるとされます。

これは極めて単純化した図式にまとめていますが、「私」に関する議論は存在するしないだけでなく、それが何であるのか未だに明確な定説を決められずにいるのが現状です。

とても複雑で容易に決められない案件だといえます。
なので、本稿でいう「私」の定義をしておくことにします。

「私」とは心の中に生じた感覚、感情、思考、想念、評価が組み合わさりパターン化されたもの。
そして、そのパターンが繰り返されることで生じているものです。

今後、本稿において「私」とか「我」といった場合には、この定義によるものです。

さて、「私」とは心の中に生じた様々なエネルギーがパターン化されたものであるとするならば、行動もまた一定のパターンを持つようになります。

それは行動のクセのようなものになり必ずしも状況に一致しない動きを強制するようになるでしょう。
理想的な行動を言えば、その瞬間の状況にベストマッチする動きを持って振舞うことだといえます。

しかし「私」が現れると同時に心のクセであるパターンに支配されてしまうのです。
つまり、「私」という存在が入り込むと行動が常に不適切になるということが予想されることになります。

「私」が入ると上手くいかなくなる。
その理由のからくりはこのような仕組みになっているということです。

3.一般的な努力の方向性と問題点

「私」という存在がパターン化された行動を促す働きを持っている。
そのため、状況によっては適切ではない行動に結びつくことが多い。

このような結論を導くことができます。
そこで人は、この結論を受けてどのような対応策を講じるのでしょうか。

一般的な努力の方向性としては「私」というものを多様化していくことです。
別の言い方をすればパターンのバリエーションを増やすという方向性になります。

つまり、あらゆる状況を想定して、適宜、その場面で適切であるであろう行動や思考、発想のパターンを鍛錬、ないし教育によって補う施策を講じます。

専門家と呼ばれる方ほどこの在り方は顕著です。
専門分野の知識、知見を深め、細やかな事態に対応した訓練を自らに課して臨むことでしょう。

そのため素人より特定分野に関しては優れた能力を発揮して最良の結果を導きだします。

専門家でなくても、私たちの多くは様々なケースを学び準備することで多様な状況に対応することが多いといえるでしょう。

では、これが本当に最良の在り方なのでしょうか。
残念ながら一部、有用性を認めることはできるものの最良とは言い難いといえます。

何故ならば、あらゆる状況を想定するということは事実上不可能だからです。
2011年3月11日に発生した東日本大震災に際して、「想定外」という言葉がメディアで頻繁に流れているのを聴きました。

「こんな大きな津波は想定外」
「原発の壁が崩れたのは想定外」

「想定外」という言葉が流されていることに多くの批判が集中しました。

「想定外を想定しろ」なんていう言葉すら流れていました。

冷静に考えれば想定する以上、自動的に想定外は生まれます。
かといって想定しなければ何かの施策の基準も作れない。

このジレンマは今もなお私たちは解消できていません。
「私」という自我を強化する施策は完全とは言い難いものだということです。

では、私たちは一般的な努力の方向性の他にどのような施策が考えられるのでしょうか。

4.自然体でイレギュラーバウンドに備える

物事はある程度判明している法則や規則性によって何が起こるのか想定することはできます。
しかしながら、その法則や規則性は前提が正確に掌握できている場合に限り有効です。

つまり、前提が少しでも事実と異なる掌握の仕方をすれば想定は外れます。
ハッキリ言えば、完全なる想定は不可能だということです。

物事を理解する深さに限りがある以上、この世に起こるあらゆるものは想定できない領域が広がっているといえるでしょう。

では、どうすることもできないのでしょうか。
そうではありません。
知識を深め想定に想定を重ねて「私」という自我を強化する道には限界があります。

しかし、逆に「私」というものを捨て、今、起こっている確かな現実、状況を掌握することに努めること。
ここに活路があります。

別の言い方をすれば、自然体で全てを行う。
物事の全てはイレギュラーバウンドで満ちています。
ラグビーボールのようにどちらに跳ねるかわからない。

それに食らいついていくためには「私」を入れず、あるがままに歪めずに見ることが必要です。
どのような状況であろうと今、起こっていることを正確に掌握する以上に確かな行動へ繋がる施策はないでしょう。

自然体でやれば全て上手くいく。

これは全ての物事に対する最適な回答は今、確かに起こっている物事の実情を掌握すること以外に得られる方法はないとういことです。

まとめ

本稿では「自然体でやれば全て上手くいく」というテーマで語ってみました。

自然体という言葉の意味するところは何か。
リラックスした態度という以上に「私」という自我が働かない状態だといえます。

「私」とは様々な経験や知識に基づく身に着けた思考、行動のパターン化されたもの。

その「私」をさらに強化して、より沢山の想定された状況に対応する施策を作り出すこと。

一般的な物事への対応方法としてなされていることです。

しかし、どれだけ「私」を強化してもあらゆる状況を想定することはできません。

それよりも「私」を捨てた自然体で物事に向き合う方が正確に事実と向き合うことができる。

以上が本稿のまとめになります。

長い文章をここまでお読み頂きまして感謝!

心庵まもる




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?