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学校はなぜ「犯罪行為といえるような”いじめ”」を学校の内に抱え込もうとしてきたのだろう?



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令和5年2月の文科相の会見

令和5年2月、文部科学大臣が定例記者会見の冒頭で、「犯罪に相当する事案を含むいじめの対応における警察との連携の徹底」等、いじめ対策に触れた。

文部科学省Webサイトにテキストも掲載されている。

同日に出された文部科学事務次官通達が下記。

出典:文部科学省 https://www.mext.go.jp/content/20230207-mxt_jidou02-00001302904-001.pdf

これは「大きな一歩」であったと思う。
是非、多くの保護者の方に知っていただきたいと思う。
 

学校は、治外法権的な「教員自治の」場であった時代が長かった

だが、こんな通達が出されるといったこと自体、学校がある種治外法権的な場であったということを文部科学省が認めたということでもある。

学校はなぜ「犯罪行為と言えるような”いじめ”」を学校の内に抱え込もうとしてきたのだろう?  

学校に関する、不信感を伴う疑問点って、結構あるとおもうんだけど、1960年台~戦後初期くらいの日教組の運動にルーツのある問題が多くって、かつ、ガセネタも多く、さらに教育学者が扱いたがらない部分でもある。

 日教組の組織率が下がった地域でも影響だけが残り続ける感じである。

簡単に結論から書いてしまうと、長年、以下のような要素が折り重なっって「学校に警察が関与できない」状態になっていたのだろう。

① 日教組の官憲嫌い・反権力指向
②「生活指導」概念の学校教育への浸透
③「教師の教育権」という考え方
④ 心理操作的手法が生活指導に持ち込まれる
⑤ 保護者層に対するプロパガンダ
⑥ 職員室の組合支部化で、管理職が手を出せない状況に。
⑦ 「生活指導」方面の理論の先鋭化
⑧ 政治運動・労働運動・大学学生運動との呼応

表ざたになりそうになってからのもみ消しについては 
⑨ 地方有力者や地方議員による学校・教委への圧力等も要員としてありうるが、とりあえず今日のところは、「学校の抱え込み体質」についてのみ考えていく。

さて、一つ一つ考えていこう。

① 日教組の官憲嫌い・反権力指向

日教組は4つの組織の寄せ集めで結成されたが、その組織成員には、終戦前は非合法で治安維持法での検挙対象にもなった「共産主義者」も含まれていた。当たり前に彼らにとって「警察」は天敵のような存在である。

元々の共産党員、シンパでなくても、労働運動が活発になるにつれ、かなり荒っぽいことをやっていた時代でもあり、1948年成立の地方公務員法で公務員の争議権が規制されても、日教組は「争議権」を権利として主張した。

このため、日教組運動において非合法活動は日常茶飯事化していった部分がある。このために「検挙」の際の「救援」の仕組みが強化されていくことにもなり、そりゃ「検挙する側」を寄せ付けたくなくなろうというものである。

②「生活指導」概念の学校教育への浸透

「生活指導」というのは、戦後になって、日教組とお抱え学者によって学校現場に普及した用語である。いまでも文部科学省は「生徒指導」は使っても「生活指導」は使わない(とりあえず公式文書等では使わない)。

戦後、生活をベースにした新教育「コア・カリキュラム運動」の不評が起こったあたりの段階で台頭してきたのが「生活指導」という用語である。

GHQ経由で導入された「ガイダンス方式」がいつの間にか「生活指導」という、日本語として落ち着きの良い後に変換されたとみることもできるが、それにとどまらない転換をみせることになる。

戦後の社会の混沌と価値観の大転換によって「非行」はしばしば問題になっていたし、修身科の廃止を不安がる、親の声も当然あった。さりとて日教組の方針的に、児童生徒を対象にした修身科の復活のようなカタチでの道徳教育の復活は、平和主義に反するものとして否定すべきものであった。そんななか、

「いかに規律のある学校をつくるか」

の目玉として脚光をあびはじめるのが「生活指導」という概念である。

この「生活指導」の方法論が、日教組教研運動(=民間教育運動)で模索される中で「子どもに関するありとあらゆる指導を、学校の教育の範疇としてに取り込む」といった転倒が発生する。

「子どもたちが可哀そう」の論理の萌芽である。

③「教師の教育権」という考え方

1952年に日教組は「教師の倫理綱領」というものを決議する。

これは日教組として「教師の目指すべきもの」を示したものであるが、さまざまな屁理屈に使われていくことになる。

教師の倫理綱領(日教組1952)

『5.教師は教育の自由の侵害をゆるさない』と『2.教師は教育の機会均等のためにたたかう』がかなりクセモノだ。

この二つを根拠に『「国家権力から独立(分離した)の状態で」「教育の機会均等のために優先すべき指導対象を決定し、指導する権利」が担保されるべき』といった主張がなされる。

「教師が指導すべき子ども」を、警察の手に渡すことは「教師の教育権をみずから否定する」ということにもなる。

彼らはある時期においては、民主的な教師としての使命感で『警察力の学校への導入』を積極的に拒否していた面もあるだろう。

だが、後年、おそらく高度成長を過ぎたあたりになると「積極的な拒否」ではなく「そうしないと日教組と教師の威信が低下し、批判されてしまうから」という消極的な拒否になっていっただろう。

 

④ 心理操作的手法が生活指導に持ち込まれる

「これからの青少年はいかにあるべきか?」「これからの学校はどうあるべきか」といった問いを吹っ掛ける形での権威勾配を使った「教室王国的な統治」は、日教組と保守層の対立が深まる1950年台はじめころから浸透しはじめるようである。この代表的な事件が京都旭丘中学事件だろう。

さらに1950年台末頃になると、常設小集団をつかった集団主義教育が台頭、「仲間外し」を集団づくりに利用するスタイルもでてくる。そして1960年台になると「ゆさぶり」「教師の演技」と称した心理的な心理的アプローチ、「集団づくり」と称した集団心理的アプローチ等が、「指導」と称して教育の場に持ち込まれるようになる。
初期は対象が中学生がであったが、徐々に小学校児童へと対象が拡大していく。

「倫理観」が転倒した場に依存してしまうと、加害が正当化されるとともに、被害が被害として認識されにくい。これはカルトの場合と全く同じである。

これにより、保護者が、被害を把握しにくいといった二次的な問題が発生する。「子ども同士の他愛ないケンカ」なのか「ケンカを越えた被害?」なのか、判断しにくい状態にもなりやすい。

集団主義教育の理論化(屁理屈)が進むにつれ、それを信奉する教員たちの保護者の申し立てに対する理論武装も進んでいく。「生活指導」は、教科でないこともあいまって、不適切な指導がおこなわれても保護者が認知しにくく、教師の屁理屈に対し、二歩も三歩も遅れをとるといったことにもなりやすい。

これも③の強化につながったように思う。
 

⑤ 保護者層に対するプロパガンダ


高度成長以前、日教組は保守層との対立が深まる中「これからの教育のありかた」について保護者層に対して啓蒙する立場にあった。

「(日教組的な)学校のやり方」や「(日教組的な)新教育」の正当化を含んだ「新時代の子を育てる親はかくあるべし」といった書籍は、こと核家族化の早かった都市部において売れたようである。

なんのことはない「(日教組的)学校教員のやり方にくちだしをするな」も多く含まれていたのであるが、そういうものに触れ、素直にうけとった親御さんも多く「学校のやり方」を疑うのに時間がかかるケースは増えただろう。

日本自体、国家の体制が大きく変わっていった時期でもあり、効果は大きかったと思われる。

その後も、教育学者及び、教員免許というものに対する信頼性がある程度保たれているうちは、それなりにそういったプロパガンダはかなり機能し、「教員のやりかた」そのものに、いじめの苛烈化誘発の機能があるケースについての検討がなされないままになる

その結果学校内での「犯罪行為」の頻発にについて「なぜ起こる」といった疑問ばかりが飛び交うことにもなる。

さらに悪いことに、バブル期になると、竹内常一(教育学者)が「子どもたちのいじめや非行は大人社会の映し鏡」という説を提唱。それに他の教育学者やマスメディアが相乗りすることで、

「いじめ加害者を警察に突き出しても解決しない」という論調も出来あがる。

 

⑥ 職員室の組合支部化で、管理職が手を出せない状況に

日教組の組織率が高かった頃(今も高い地域があるが)、学校の職員室はしばしば「組合支部化(分会化)」することがあった。

これは日教組の闘争方針であり、日教組お抱え学者らも主張していたことである。

「職員会議を最高議決機関とし、学校運営そのものを民主化するべし」
といったことが真顔で語られていた時代はかなり長かった。

簡単にいうと「管理職否定」である。

ハッキリ職員室内に掲げられるようなケースまで実はあったようだ。
 

八鹿高校事件ドキュメンタリー映画より

日教組がそういった方向性を放棄し、文科省(当時文部省)と和解するのは1995年になってからである。

1995/07/26 毎日新聞朝刊社説(日本財団図書館より)↓


「管理職を無効化」するようなケースは、いまだ一部で温存されているのではないかと考えられる。

2024年1月16日に発覚した、奈良教育大学付属小学校の不適切授業問題でも、同校で「職員会議が最高議決機関」と位置付けられ、ガバナンス低下の一因であった模様。

遵法意識の低下は日教組組合員から起こっていた可能性は低くはないだろう。遵法意識が低下すれば、犯罪を犯罪として認識しにくい」といったこともおころうというものだ。

それに保身が加われば「このくらいいいじゃん」も起こりやすい。

「いじめを大ごとにしないのが正しい」という空気を温存することに繋がっていたのではないだろうか。

 

⑦ 「生活指導」理論とマニュアルの先鋭化

1960年台に入ると「生活指導」において「集団主義教育」が主流になっていく。ほほこれは共産圏の系譜によるものである。

いくつかピックアップすると下記のようなものである。

「米帝資本主義的退廃(or軍国主義的な思想or封建的思想)から子どもを救い、民主的な集団として発達」
  ⇒副作用 教師による非民主的認定から”虐げていい者”が固定化。
「最も困難な状況にある子どもこそを教師は救うべき」
  ⇒副作用 教師による依怙贔屓からやっかみが発生しやすい。
「個人主義の子どもは、集団の自治的指導で改善を促すべき」
  ⇒副作用 帰りの会吊し上げ、仲間外れ等
「集団の一因としての自覚を高めるために、いがみ合いを誘発すべし」
  ⇒副作用 教師に阿る児童によるイジメが起こりやすくなる
「様々活動で班競争をさせて、集団を高めるための議論の材料をつくる」
  ⇒副作用 助け合いしにくくなる、マウンティングが横行する。

そして事細かな「学級集団づくり」の教育実践報告や、集団づくりマニュアルが整備されることになる。

1971年に発行された「学級集団づくり入門第二版」は初版にあった「ソ連くささ、共産主義的表現」を削ったことによって、38刷という、爆発的なヒットを生むことになる。


マニュアルを作っていた教育学者や実践家(教研集団のリーダー)達は、1960年代初頭には、ある程度副作用を認識していたようだが「克服すべき課題である」と言いつつ、なにも対策をとらぬばかりか、1980年代には「子ども達が厳しさに耐えられなくなった」としてみたり「子ども自身の問題」や「家庭の問題」などと責任転嫁をはかってきた。

かくて1980年台に班競争についての批判は、大きな流れにはならず、その手法のいくつかが廃れただけにとどまった。

これにより守られたのは「③教師の教育権」だけであっただろう。

その後も「集団主義教育」の根幹の理論部分は批判されないままの状態であり、少し方法がマイルド化した状態での「集団づくり指導」は温存されている。

集団づくりへの過度な傾倒」そのものが批判されない状態では、副作用は起り続けるだろうし、「加害者こそがケアされるべき」という論調ものこりやすい。
 

⑧ 政治運動・労働運動・大学学生運動との呼応

終戦以降1970年くらいまでは、国内の政治も大きく動いた。

当然、「教師は正しい政治をもとめる」を教師の倫理綱領に掲げた日教組は政治運動や政治運動とも呼応していくことになる。

1960年台後半になると、全共闘の学生運動も激しくなってくる。
その主張には「大学の自治」が大きな位置を占めていたことは間違いあるまい。そしてそれと呼応するように「大学の自治」「学問の自由」の論議が、「日教組」の「学校の自治論」に援用されていくようにもなる。

また、1960年~70年台は同和問題に絡む教育事件もいくつか起こった。1969年の矢田事件は、同和問題に端を発しているし、同和特別措置法等の政治問題との政治的動きとの呼応も当然起こる。なお悪いことに同和関連の教育関連事件には、しばしば暴力を伴うものがあり、かつ、その後の論議において「社共対立」反映してしまい(八鹿高校事件 戸手商業高校事件 等、)、暴力の有無自体が、社会党・共産党双方のプロパガンダの中に埋没してしまうことにもなった(後に民事・刑事で裁判になったものもあるが)。
簡単に言えば、警察も学校内の問題から距離を置く、といったことが常態化するようにもなる。

おわりに

もう、まとめるほどのこともあるまい。かくして、公立学校は「法治」の及ばない特殊空間となり果てた。

「いじめ」の問題を「教育の重大な問題」と語る学者や識者ですら、多くは、上記にのべたような背景を踏まえずに「他者に対するやさしさ」や、「それを育まない管理教育」や「大人社会の問題の映し鏡」にすり替えてきた。

文部科学省が、犯罪行為といえるいじめを学校内で無理に解決しないで警察との協力を、という方針を明確に打ち出したことは、大きな一歩ではある。

これを推し進めていくことは「学校を法治空間」に戻すことにつながるだろう。

そのためにも、それを阻む「学校の論理(と、背景としての日教組の論理)」というものも、知っておければと思い、キーボードを叩いた次第である。
 


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