「学級集団づくり」とマカレンコの教育論ついて再考する
マカレンコの名は出てくるが…
1960年台~1970年台にかけて、日本で全国生活指導協議会の主導する「学級集団づくり」とそれを学習のベースにした教育方法論に関する書籍が大量に発刊されている。
そういった書籍を読むとしばしば目にするのが、ソビエトの教育学者マカレンコの名である。
それゆえ、全生研方式の「学級集団づくり」は「マカレンコ」の集団主義による方法論を移入したもの、あるいは、それと非常に似ているものとされてきた。
多少の引用部などをもとに考えると、そういう気もしてくるが、そうではないという意見も目にする。
仕方ないので読んでみる
翻訳本をわりと安く入手できたので、マカレンコの教育詩、そして集団主義教育論の翻訳本を読んでみた。
「教育詩」に描かれた内容と「集団主義教育論」にかかれた言説の乖離がある。そして「教育論」部分に関しても、ちぐはぐな部分がある。
「教育詩」を「討議活動・集団づくり」ではなく「マカレンコの動き」に着目して読んでみると、あまり集団主義的な発想が強いとは思えない上、案外、子どもの尊厳を守ろうという動きが見えるのだ。
このちぐはぐさを考えてみることにした。
マカレンコの生きた時代
アントン・セミョーノヴィチ・マカレンコ 1888年3月1日-1939年4月1日
教育詩に描かれたコムーナという矯正教育施設にマカレンコが関わった時代は1920年台という混乱期のソビエトが主だが、著作の殆どは1930年台に書かれているものだ。ソ連で発行されたのはスターリンが強大な権力をもった1930年台半ばである。
そして、マカレンコと親交のあった文豪のゴーリキーは、ポリシェヴィキに関与したものの二月革命以降はレーニンとも確執があったとされ、1934年にスターリンによって軟禁され、1936年に亡くなっている(毒殺の疑いもある)。
スターリンによる大粛清は1934年~1937年とされる。
マカレンコと同時代の教育学者であり、レーニンの妻であったクルプスカヤでさえ、スターリンによって政権から遠ざける動きがあったともいわれる。
このような中でマカレンコが、生産手段の共同化を推し進めるスターリンの方針や、「マルクス・レーニン主義」から外れた教育論が書けた筈はないと考える方が妥当だろう。
粛清の危険を避けつつの著作活動であったがために、マカレンコの「教育詩」に描かれるものと「教育論」の乖離、そして「教育論」中のチグハグさが生じたのではないか?
教育方法論を考えるということ
マカレンコの教育言論の中で、興味深い一節がある。
合目的性。合目的性のどのような論理でもが、われわれを満足させるものではない。われわれの教育科学の20年の実績のなかにはおおくの誤りがあったが、そのほとんどは「合目的性」という思想の歪曲にあった、
そのような歪曲の主要なたいぷは次のようである。
a.演繹的予言のタイプ
b.倫理的迷信のタイプ
c.孤立的手段のタイプ
【ソビエト学校教育の諸問題 マカレンコ 矢川徳光訳 世界教育学選集 集団主義と教育学 明治図書 1976】
この部分と直後の項目説明は、「弁証法」など弾避けと思しきレトリカルな装飾は施されているものの「教育方法を考える際に陥りやすい罠」「教育の劣化が起こった際のチェックポイント」が明確に書かれている。
そしてそれは、その後のあらゆる教育方法論に適用していけるものであり、マカレンコ自身が提唱した方法論にすら向けることができる。
1960年代の社会制度の全く違う日本に、「反資本主義」を根拠にマカレンコの手法の一部のみを持ち込んむことは、即座にマカレンコの言う「b.倫理的迷信のタイプ」に陥ることになる。
結論
全生研の「学級集団づくり」は、マカレンコの思想を引き継いでいない。
劣化した方法論があちこち転がってる現在の「教育界隈」において、マカレンコの「教育方法の誤謬論」(引用した部分)は、結構利用価値が高い。
おまけ
案外マカレンコはしたたかかつ慧眼な教育学者だったのかも知れない。
案外読んでみるもんねえ~。
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