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「我思う、ゆえに世界あり」と思っていたあの頃[72/100]

「我思う、ゆえに我あり」
デカルトの提唱したこの難題を知ったのは、小学校6年生の時だった。
自分は世界の中でなんてちっぽけで、なぜ私は存在しているのだろう、もしも明日いなくなっても、何も変わらない、じゃあ、いないのと同じではないか? と思って生きていたころだ。
付随して「自分の認識があるからこそ世界がある」という話を聞いて「なるほど、私の認識によって世界が成り立つという世界観もあるのか」と驚いた。

私は、親との折り合いが悪く、家にいることがツライと思ったときがよくあった。そんなとき、この「私中心の世界観」に助けられた。「私が親と認識しているから親なのであって、私が忘れたら、ただの知らない人なんだ。それであれば、私が親だと認めてあげているから、親としての権力を行使できるのであって、私が違うと思ったら、ただの喚く人だ」とかよくわからないことを考えていた。「我思う、ゆえに世界あり」的な思考回路。根暗だし、若干こわい。

主語なき文章や、主語の大きな文章にくらべ、「私」の圧倒的な強さよ。
私の思いを叶えるために、私を救うために、私が生きるために。私が。私が。
神も仏をも、目的語に据えてしまう「私」のたくましさ。いっそ清々しい。

自分中心、イェーイ【さとゆみの今日もコレカラ/040】

大人になって「我思う、ゆえに世界あり」思考回路をすっかり忘れていたけれど、さとゆみさんの24時間更新エッセイを読んで思い出した。

最近私を助けてくれるのは「宇宙から見たら私は見えない」という事実だ。「宇宙から見たら見えないくらいのちっぽけな存在なんだから、たいていのことは無問題」みたいな感じだ。

以前は「私はいてもいなくてもいいのに、なぜ生きているんだろう」なんて思っていたけれど、「いてもいなくてもいいなら、せっかくいるのだし、誰かの役に立てたら嬉しい」と思えるようになった。

大人になったのか、ある程度自分の限界が見えたか。

先日、13歳の長女が、反りの合わない担任について一言「いいの、こけしがしゃべっていると思えば。私が正しいと思っているから」と言い放った。「すごい自信だな、おい、大丈夫か」と思ったが、私も同じだったんだな。これだけでなく、最近の長女は無駄なくらい自分への自信(自己顕示欲?)と、仲間からの評価(どう見られるか)を気にしている。思春期特有のめんどくさい時期。若さを満喫してくださいまし。
数十年後には「あの時は青かったな」なんて言うのかしら。私みたいに。






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