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『アイドルマスター ミリオンライブ!』のアニメですっかり老害になってしまったのを実感したという話

今回、筆をとったのは、2023秋アニメにて放送されていた『アイドルマスター ミリオンライブ!』(以下「ミリマス」と表記)につき、世間の評価と自分の評価にギャップがあると感じたことがきっかけである。
自分は毎クールのアニメの感想をランキング形式で投稿しているのだが、ミリマスについては完走した30作品中、28位とかなり低い評価となっており、批判的な観点に偏った感想となってしまっていた。
しかし、当該記事の投稿後にミリマスの感想を色々と読み漁っていると、ネガティブな意見はあまり見られず、むしろ「OPが素晴らしかった」「ストーリーがエモかった」「これだけの人数を上手く描き切った」というようなポジティブな意見が多くを占めているようだった。

なお、自分のミリマスの感想については、当該記事を参照していただきたいが、念のためここにも引用という形で掲示しておく。

とにもかくにもフル3DCGへの移行が残念に過ぎた。制作側にとっては相当思い切った決断であったろうし、きっとそのおかげで劇場先行上映も実現できたのだろう。ただ、直近の『U149』でコンテンツの底力を見せつけられたと感心させられたのは、あくまでも「手描き」に拘る作画力とコンセプトに合わせた人選による脚本力が見事に噛み合った結果である。そして、今回の『ミリオンライブ!』にはその両者とも欠けていたと言わざるを得ない。人数が多すぎる上にチームごとのコンセプトもはっきりせず「ただ多いだけ」になっていたし、何よりもモデリングが1種類しか無いのではないかと疑いたくなるぐらい全員が同じ体型にしか見えず、アイドルごとの個性には非常に乏しかった。765プロの劇場版においていわゆる「できない組」だったメンバーの成長は眩しかったが、逆に言えば見所はそれぐらいであり、この「最適化」の方向性には大いに疑問を感じざるを得なかった。

【豆蔵「2023秋アニメ感想まとめ」】

ここからは、上記に引用した自分の感想を軸に論点のポイントを羅列し、それぞれについて改めて解説を行っていこうと思う。


①3DCGモデリングの出来は評価できるものだったのか

とにもかくにも、まず語りたいのはこの論点である。二次元コンテンツに対する「皆同じ顔に見える」という意見は、古今東西の非オタの方々から伝統的に第一声に挙げられることが多いものであるが、ミリマスについては顔はともかくとして、「皆同じ体型に見える」というのが自分の正直な感想である。

この映像に違和感をバリバリに感じてしまうのは自分だけだろうか。
あろうことか、765プロ屈指のダイナマイトボディを誇るあずさ(画面一番手前)がこともあろうか、やよい(画面手前から二番目)と背の高さ以外ほとんど同じ体型に見えるではないか…‼
ちなみに、2011夏・秋アニメの『THE IDOLM@STER』(以下「アニマス」と表記)での作画は以下の画像のとおりである。

非常に分かりやすい場面を選択したのは否定しないが、自分が何を言いたいのかは自ずと伝わったかと思う。
これをフル3DCGへの移行による弊害と言わずして何と言えばよいのだろうか…(血涙)
また、アイマスシリーズでは伝統的に原作ゲームにおいて3DCGモデリングが使用されているが、そこにおいてはキャラごとのモデリングの描き分けはきちんとなされていたのである。

72を言っても野暮になるので直接的なコメントは割愛させていただくが、千早(画面中央)と貴音(画面右)の明確な描き分けは明らかであり、ライブシーンにおいてもその胸囲脅威のド迫力には圧倒されたものである。
こうした(最大限上品な表現をするなら)フェチズムの発露というべき映像表現はダイレクトに視聴意欲に貢献するものであり、ミリマスにおいては自分がそのあおりを大いに受けることとなったことは言うまでもない。

そして、上記で引用した感想でも述べたとおり、アイドルマスターの歴代アニメシリーズでは、ミリマスにおいてはじめて本編のフル3DCG化への移行が行われた(ライブシーンなど一部ではこれまでも先例あり)。
現在の二次元コンテンツにおいては、数多のアイドル系作品が溢れる飽和状態が続いているが、間違いなくアイドルマスターシリーズはそのブームの先駆け的存在として一時代を築いており、そして、他のアイドル系作品との明確な「差別化要素=強み」として「あくまでも手描きに拘る作画」が果たした役割は非常に大きかったと自分は考えている。
それは上記で述べたフェチズムの発露という観点からはもちろん、画面から伝わる制作陣のキャラ愛や感情表現の絶対量が全然違ってくるからである。

アニマスで見られたようなこのような画像一枚でも胸が締め付けられるような表情芝居は、ミリマスでは残念ながら見られなかった。
また、アニマスの劇場版のクライマックスにおいては、手描きの作画によるライブシーンがなんとフル尺で披露されており、その圧巻と感動の映像クオリティには身震いし、当時は何度も劇場に足を運んだものである。

そして実は、上記のライブシーンにおいては遠目に映っているアイドルに一部3DCGが使用されているのだが、それでさえ当時はかなり批判的な意見も散見され、それは「アイマスのアニメ=手描き」という常識ルールが、いかに絶対的な聖域として浸透していたかという証でもあるだろう。
そのような歴史を肌で感じてきた身としては、ミリマスにおいて本編のフル3DCG化への移行が行われたという事実は、アイマスというコンテンツにおける大事件であり、もっと声高にこれを批判する声が上がってもおかしくないと思っていた。
この部分に何ら失望感を感じないのが現在の大多数のファン=「P(プロデューサー)」だというのなら、自分は完全に時代に取り残された過去の遺物となってしまったということなのであろう。

②そもそもアイドルの人数が多すぎるということに問題はなかったのか

今回、ミリマスの感想を色々と漁っているに際し、「全員にきちんと出番を与えてくれていた」というポジティブな意見はあれど、「アイドルの人数が多すぎる」という設定の根本を否定するようなネガティブな意見はあまり見られなかったように思えた。
もっと言うなら、「自分の担当の○○○○(アイドル名)の扱いがあんまりで腹が立った」というようなミクロな意見があまり見られず、言うなれば「箱推し」の観点から全体を批評するマクロな意見がデフォルトになっているように感じた。

かくいう自分も、ことミリマスについては特に担当のアイドルがいるわけではなく(765プロではやよいの担当)、純粋に一つのアニメ作品としての批評をするにとどまったのだが、上記したフル3DCGへの移行という歴史的大事件とも言うべき判断及びその弊害については、そもそも「アイドルの人数が多すぎる」ということに端を発しているのが明らかである。
これまた上記したように、アイマスの原作ゲームについてはきちんと3DCGモデリングの描き分けができていたという伝統的な実績があるのもまた事実であり、それは言うまでも無く「描くべきアイドルの人数が限られていたから」に他ならない。
その他、ミリマスに対するネガティブな意見として、「キャラの個性が不明瞭」「設定の深掘りがなされていなくて残念」というものも一部見られたが、それらももちろん人数が多すぎる故の弊害であることは言うまでもない。

また、いわゆる「一期生」(矢吹可奈、北沢志保、箱崎星梨花、七尾百合子、望月杏奈、横山奈緒、佐竹美奈子)については、アニマスの劇場版において「765PRO ALLSTARS」のバックダンサー(及びストーリー上のキーパーソン)として早期にデビューしており、自分にとっても馴染みのあるメンバーであるので、その後の彼女たちの成長した姿が見られたのはとても感慨深かった。

このような一期生だけを切り取ったカット一つでも自分は嬉しい気分になるし、何なら可奈と志保が普通に会話していたり、百合子が先輩風を吹かせて張り切っていたりするのを見ているだけで少し涙腺が緩んでいたぐらいなのである。
しかし、そこに同様の感慨を持ち込んでいる感想はあまり見られず、あくまでも一期生も「7/39」として平等に見守るスタンスが大半であったように感じた。

総じて、かつて主流派であった(と思われる)特定のアイドルの担当Pとして情熱と偏愛を注ぎ、大いに贔屓目を持ち時に過激な言動も交えながらコンテンツの動向を追っていた層はもはや少数派となってしまっており、数あるアイドルコンテンツの一つとして穏やかな目線で作品そのものを楽しむというスタンスが現在の主流派となっているのではと考えられる。
そのため、「アイドルの人数が多すぎる」という点がほとんどマイナス要素として浮き彫りにならず、「それならそれなりに描写してくれればよい」という穏便な意見が多数を占めていたのも何ら不思議ではなかったのだろう。

その点、アニマスは2クール放送であったこと、アイドルが総勢13名となんとか全員に個別のキャラ回を与えるに足る人数に収まっていたという点が非常に大きかったと思われるが、かつてのアニマスを見ていた層はもうほとんどいなくなってしまったのだろうかと心配になってしまった。

③アニマスと比較した場合の脚本の質は高いと言えるものだったのか

上記①②にも関連する論点にはなるのだが、「アイドルの人数が多すぎる」という点は、その脚本面についても大きな影響を与えざるを得なかった要素である。
そのため、ミリマスにおいては春日未来、最上静香、伊吹翼の3名を主要なアイドルとして位置付け、彼女らは脚本上でも明らかに出番の多い贔屓的な扱いを受けている。
このような露骨な差別についても、特に批判的な意見がほとんど見られなかったのは、上記でも述べたように、特定のアイドルに情熱と偏愛を注ぐ層が少数派となっていると思われることからももちろん説明がつくが、何よりもその3名が天海春香、如月千早、星井美希というアニマスにおいても待遇の厚かった(特に春香と千早)中心的存在の後継者として、それぞれ綺麗にハマっていたからであろう。

そして、「春香=アイマスのセンター」、「千早=アイマスのヒロイン」、「美希=アイマスのエース」とかつては呼称されていたように、未来、静香、翼の3名についても、同様のポジションの象徴として描かれていた。
脚本上の描き方もそれらのオマージュとも呼べるものとなっていたが、個別に比較すればやはりアニマスは「深み」が段違いだと言わざるを得ない。

最も比較対象がしやすいのは千早と静香であるが、この二人は脚本上でも静香が千早から直々にイベントのサポートメンバーとして指名を受けるなど直接的な絡みも多くなっており、同系統のキャラの系譜として公式でも推されているカップリングであると言えるだろう。
教会でのチャリティーコンサートにて、未来と翼がその背中を押し、静香がソロ曲を見事に歌い上げたシーンは正直ウルッときてしまったのだが、身も蓋もない言い方をしてしまえば、アイドル活動に反対する頑固親父を頑張って説得したというだけの話であり、子供の頃に弟を交通事故で亡くし、それをきっかけとして家庭が崩壊し、そこから逃げるように歌に人生の全てを捧げるようになったという激重の設定を抱える千早がそのトラウマから解き放たれた感動的なシーンと比べてしまうとさすがに分が悪い。

また、「私は天海春香だから」ともはや禅問答の域に達した春香の抱えるアイドルセンターとしての業は、未来のそれとは比べるに及ばず、真の意味での後継者に彼女がなることは未来永劫ないだろう。


さて、ここまで自分のミリマスの感想の意図について改めて解説を行ってきたが、自分でもあきれるぐらい見事に過去のアニマス(の良かった部分)を引きずっているものだと逆に感心してしまった。
ミリマスはミリマスとして素直に楽しめば良いのに、わざわざ比較対象としてアニマスを持ち出してつまらない気分になっていては非常に勿体ないとしか言いようがない。

ミリマスに具体的な意見を物申すなら、それこそ直近の『U149』のようにコンセプトに合わせた人選を行い(それぞれのキャラ回を作ることのできる人数に抑えるのが絶対条件)、各キャラを深掘りする方向性で制作していれば、自分のような「これまでのアイマスのアニメシリーズの技法」に深く首肯をしてきた者にはよりウケが良くなったことだろう。
ただ、今回のミリマスについては、そもそも『アイドルマスター ミリオンライブ!』というコンテンツが初めて本格的なTVシリーズとして制作された記念作品なのであり、所属アイドル全員を(出番の多寡はあれ)きちんと描こうという方向性は、全国のミリマスP(及びアニメファン全体)の意向を受け止める方向性としてはけして間違っていなかったと思われる。

最終的な結論としては、自分のような765プロ原理主義の(元)Pは現代においては完全に「老害」となっており、制作陣にとってはたいして金は落とさないくせに選択肢の幅を狭めるだけの「ノイジー・マイノリティ」だということである。
ただ、自分のような立場及び考えを有する者はきっとまだ一定数存在することを信じ、今回筆をとった次第である。
もし、今回の記事にそのような方々の心に少しでも響く内容があったなら、同士としていつか酒を酌み交わせる日を願って止まない。


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