顔も知らぬ人に会うとはいつからか
ツイッター婚活やマッチングアプリで顔写真のない方と会う約束をした際に、そもそもこういった試みは平安時代からあったよなあって思い。
ルッキズムが跋扈する今世においてなかなかにチャレンジングな試み。
平安時代であれば歌を詠み、その教養と心情と趣向を図る。
一方現代。400(無料の場合)字のつぶやきで色々と出来事を語る。
マッチングアプリはまさに和歌そのもの。
みたいな。平凡なメッセージですみません( ̄▽ ̄;)
どこに和歌の要素があったかって。ないけど。
ツイッターはまさに日々のつぶやきにその人の趣向や性格が宿る。
やたらと今を嘆く人は悲観主義的だし、まあSNSを使う以上内向的な人が多いのはわかるが発信する以上、相手を意識したつぶやきができるかもポイントな気がする。
いわゆる教養?気遣い?心配り?
この文章を書いているのは、顔も知らぬ誰かに出会うリスクと、その前の心意気を記そうと思ってのことだ。
私自身イケメンでも何でもないが、やはり外見は気にする。
一方で共通の知人や友人って外見で判断するだろうかと。
最初はたまたま同じコミュニティでなんとなく言葉を交わして仲良くなる。
そうやって、異性であればもちろん外見から好きになって恋になることもあるが、そうやって人は最初にはそこまで外見を気にせずに色んな縁を生んでいるなと。
顔も知らぬ相手との間でどんな会話を生みたいか。
価値観
趣味趣向
性格
生活リズム
まあ平凡だ。逆に平安時代はどんな歌を交わして愛を生むまでに至ったのかを改めて学びなおそうと思った。
季節の変わり目やその日々を五感で感じる時間が長いからこそ、様々な素敵な和歌が生まれたのであろう。だからこそツイッターでもこの変化の多い時代において、いろんな情報や日々の出来事をどれだけ趣深く捉え、言葉にできるかが問われるのであろう。
いつの時代においても「感性」が試される。
興味深いのは、最初は男性から送っていた文も段々と女性が本気になると女性が追いかけ始める点だ。これは今も同じな傾向な気がする。
また、この時代においてはやはり外見による一目ぼれは少なく基本的に噂などから気をひかれるようになった様だ。ツイッターでいいねが増えて、この人良いかも―ってなる感じが近いのかなと。
ふと横から聞こえたセリフ。好きになるまでが大変なこの顔見ぬ恋。
同じコミュニティで始まる恋はそういうものかもしれない。
さてと。脈絡もなく書いてきたが、とりあえず電話というもので随分と距離を詰めることができる中で、その前のメッセージは互いを知る貴重なコミュニケーション手段である。
何が言いたいかよくわからぬままここまで来てしまったが、とりあえず対面であろうと、非対面であろうと教養と礼儀と少しのユーモアを大切にすることが肝要だということで締めようと思う。
参照
https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900052023/Gobun_25_yamashiro.pdf
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