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絶壁の上に建つ街 ロンダ

前回紹介したヌエボ橋はロンダの旧市街と新市街を結ぶ100mの高さのある橋だ。その下を水源である川が流れており、この川が侵食した渓谷の両側に街がある。高層ビルなんてありえなかった昔、防衛上、遠くを見渡せる高さがほしければ、自然の地形を使うしかなかったのだろうが、ほぼ岩のようなこの地によく街をつくったなぁと思う。しかも水源は100mも下で、ポンプもない時代、滑車は使ったものの、人海戦術で水を上へ運ばなければ、使う水がなかったというのだから、驚きだ。

高さがありすぎて、写真に水源の川まで写らない

タイル

街の全体像を示すタイル壁画。枠に使われているタイルを見ると、ペルシャの絨毯を感じませんか? スペインってタイルをよく使うけど、元はペルシャから14世紀にイスラム教徒によってもたらされて、アンダルシアで生産されるようになったそうだ。昨日Noteに書いた闘牛場もこのタイル壁画の左の方に描かれている。

バルコン・デル・コニョ

闘牛場から桜の咲く公園を抜けて歩いて行くと、ちょうど絶壁の縁というか、先端にたどり着くのだが、そこに高いところが苦手な人なら足がすくんでしまうようなバルコニー(?)が突き出ている。ここから遠くまで見渡せるし、水源の川がはるか下に見える。下からロンダを見上げるのもきっときれいなんだろうな。下まで歩いて行く人達がちらほらと小さな米粒のように見えた。

バルコン・デル・コニョ

長い歴史を簡単に

ロンダ近くの洞窟に壁画が発見されていて、紀元前6世紀くらいから人が住んでいたらしい。その後、紀元前3世紀くらいにローマ帝国に平定されて、ここはローマ帝国の一部だった。そのローマも衰退して、711年にイスラム教徒がイベリア半島へやってきて、その後、独立したロンダ王国となり、1485年に戦争があって、フェルナンド2世によって陥落、イスラムの支配は終わった(とネットにあり。すみません、世界史苦手だったので、訪れたときには全く知りませんでした。)大まかに3段階、ローマ時代、イスラム時代、その後とあるから、橋の下をみると、ローマ時代に水を運んだ、あるいは住んでいたと思われる洞窟みたいのが見えるし、今の新橋の下に水を運んだような道があり、そして今のロンダが一番上にあるのがなんとなく見て取れる。

一番上の層
なんとなく3層になっている

ラカーサデルレイモロ

ヌエボ橋を渡り、旧市街へ。お城のような18世紀のラカーサデルレイモロというところがあり、そこから下の水源まで下りて行かれる。(残念ながらラカーサデルレイモロの家屋そのものは廃墟のような感じで、修復のために資金集めをしていた。入場料として払ったお金がそこにつかわれるのかなと思う。)

もうすぐですよ、という看板

入口で迎えてくれたのはクジャク。何羽もクジャクがいたけど、大きな鳥だけに大きな鳴き声、しかも私は聞きなれないから、びっくり。

この右側に入口があるのだが、いきなり鳴き声が聞こえて何がどこから声をだしているのか最初わからなかった
実は回りで数名が羽を広げるのを待っていたが、広げてはくれなかった

このきれいな庭を通って、かつての家屋(CASA)から200段の階段を下りて行くと水源の川まで行かれる。

歴史を感じる不ぞろいというか、手作りと言う感じで高さや幅の違う石の階段を下りて行く
途中におそらく滑車を使って水を上げて水をためておいたところではないかと思う
川が見えてきた!
水源の川から見上げるロンダの新市街

上りは結構きついが、イスラム時代はキリスト教徒の奴隷が、イスラム支配が終わるとイスラム教徒の奴隷がこの階段を使ってひたすら水を運んだらしく、その単純重労働にうらみつらみが蓄積されて、壁に落書き(文句?)が書かれている。

キリスト教徒が奴隷だった時にの落書き? 見てもよくわからなかったけど、十字架とかがかいてあるのかなぁ

上に戻って新市街を眺めながらカフェで一休み。右手奥に、乗馬学校の校舎だろうか、外の馬場で練習をしているのが見えた。

旧市街から新市街を望む
白いのが乗馬学校校舎と思われる。馬に乗っているのがうまく写っていないが、練習をしていた

ここから放牧

ここまで皆で行動していたが、迎えの車がくるまで放牧、と言われ、新市街を個々に散策。カフェやレストラン、お土産屋さんを見て回った。

ヌエボ橋は観光客でいっぱい。馬車が走っていた
スライスしていない生ハムがいっぱい吊り下げられた店内

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