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嘘と絶望と煌めき

愛する人に対して、どこまで正直にいるべきだろうか?

言わないことは、隠すことは、嘘をついていることになるんだろうか?

そんな事を考えながら家路に着く。

「ただいま」

妻の夏希には、遅くなるから先に休んでいるよう、連絡を入れてあった。だからドアを開けた時にリビングから仄かに灯りが漏れてるのを意外に思った。

リビングではスタンドの灯りを点けたまま、ソファで夏希が眠っていた。片手に本を携えている。寝落ちしたようだ。

「夏希、こんなとこで寝たらダメだよ」

声をかけると眉間に皺を寄せて薄目を開けた。

「あ…やだ。寝ちゃってた」
「先に休んでていいって言ったけど、ちゃんと部屋でって意味だったんだけどな」

夏希はまだ少し寝ぼけたような顔している。

「遼太郎さんが帰ってきて、家の中が真っ暗だと寂しいかなと思って、ここの灯りだけでも点けておこうかなと思って、そしたら、灯りだけ点いてても変かなって思っているうちに、寝ちゃってた」

その言葉を聞いて、いじらしくなって夏希を抱きしめた。
「ありがとう。優しいな、夏希は」

そして再び、例のことが頭の中を過ぎる。

俺は夏希に、隠し事をしたり嘘をついて生きていくつもりは一切ない。
だけど、全てを曝しても、傷つけることもあるだろう。

知らないでいる方が、幸せなこともあるだろう。
そして再び、例のことが頭の中を過ぎる。

そのことが、おそらく大したことでもないはずの出来事が、まるで罪のように思えてくる。

さぁ、どうする?

* * *

前田有紗が中途で入社してきたのは、多様化する案件のサポートが必要になり、部付きのポジションで採用されたからだ。
他に部の直属には俺しかいなかったから、当面はOJTをしながらペアで動くこととなった。

大層な美貌の持ち主で部長もだいぶ気に入っていたようだったが、俺も素直に、随分な美人だなと思った。

折れそうな細い身体をして、かかとの高いヒールをいつも履いていた。
歳は俺の8つ下とのことだったが、大人の女性の雰囲気を目一杯作っているのに、時折幼い目つきをする。

髪の先から爪先まで、一切気を抜かないような、そんなちょっとした "息苦しさ" と、隠しきれない本当の自分を持て余す、そんな危うさを纏った女性だと思った。

仕事ぶりは大したもので、英語が堪能な彼女は海外のオフショアや取引先のやり取りにも同時通訳的にこなしてくれたり、管理業務も完璧だった。

どうして前職を辞めてきたのか、おそらくこんな規模の小さい会社でなくてもやっていけるだろうにと思って訊いたことがあったが、「大きな組織では一つ一つの達成感が小さいから」とのことだった。

* * *

ある日、残業を終えて帰ろうと窓の外を見た時、雨が降り出していた。

「あー、雨だ」

夏場だから急な雨降りは仕方ないとはいえ、傘は用意していなかった。

そこへ前田が近づいてきて、折りたたみの傘を差し出してきた。
「良かったら、置き傘があるので使ってください」
と。

その表情はいつも業務中に見せているそれとは違い、ぎこちない緊張感を漂わせていた。
俺は「そんなに家も遠くないから」と断った。

必然的に雨宿りを兼ねて少し会社に残ることになったが、その時横に並んだ彼女が言った言葉は、衝撃的だった。

「次長は絶望したこと、ありますか?」

驚いて彼女を見たが、真っ直ぐに窓の外を眺めたまま、瞳には雨に濡れる街の灯りがともっていた。

「前田は誰かに絶望を感じたのか」

彼女はそれには答えず、俺が国際遠距離恋愛の末に結婚までしたことが信じられない、と言った。

それ以来、彼女は時折どこかへ心を飛ばしているような様子があった。
俺は彼女の言った「絶望」という言葉が、ずっと引っかかっていた。

* * *

帰りが遅くなると連絡したのは、忘年会で思いの外酔いつぶれた前田を介抱するためだった。

そこで俺は彼女から『告白』される。

言うつもりはなかったと。ずっと隠しておくつもりだったと。

しかし俺と話をしていて、俺がいかに妻の夏希を大切にしているか、どれほど深い愛を抱いているかを知って、言う気になったという。

自分が想いを告げたところで、俺は変わることはない、と。
だから好きなままいさせて欲しい、と、彼女は言った。

心は自由だ。自分も変わるつもりはない。その時はそう思って、打ち砕くようなことは言わなかった。

しかし。
全く無の状態でいられるわけでもなかった。

夏希に対する愛情は変わらない。前田に浮気心が動いたわけでもない。
関係を持ったわけでもないし、触れることさえしていないのに、何か後ろめたさを抱えたような気持ちになったのだ。

仮に夏希に話すとしても、何を言うというのか。

「今日、同僚に告白された」とでも? 子供が親に報告するわけでもあるまいし。

言わないところで何も変わらない。むしろ言ったことで疑念が生まれるだろう。

つまり俺はそんな気持ちの振り子に、苛まれている。

* * *

忘年会の翌日はもう休暇に入っていた。冬らしい、スッキリと晴れ渡った日だった。

朝食を済ませて夏希はベランダに出て洗濯物を干す。
せっかく南向きの部屋だからお日様にあてたいと、室内乾燥を使わずに外に干すことが多い。

俺はリビングの、昨夜彼女がうたた寝をしていたソファで本を読んでいた。内容はあまり頭に入らず、昨夜の出来事を反芻していた。

逆に夏希にもしも同じような出来事があったら、俺は知りたいだろうか。
聞かされた後、少しも動じずに過ごせるだろうか。

しかし、俺と夏希は、全く同じなわけではない。

「どうしたの?」

不意に声をかけられた。ハッとして振り返る。

「なんか、難しい顔してぼんやりしてる」

「あぁ、ちょっと、考え事」
「仕事で何か思い残すことでも?」
「いや…。夏希、昼飯だけど、外へ出ないか。天気もいいし、ちょっと歩こうよ」
「えっ? うん、いいけど。なんかイベントっぽい感じが続くね」

つい先日のクリスマスは、俺達夫婦にとってイベント尽くしな日でもあった。
付き合い始めて5年、入籍して2年、式を挙げて1年の祝い、そしてクリスマスがみんな同じ日にあたる。
だからまだ数日しか経っていないが、空気を変えた方が良さそうだと思い、提案した。

* * *

外へ出ると風もあまりなく、暖かささえ感じた。

家からほど近いカフェへ向かう。そこは夏希が彼女の弟の春彦とよく出かけた店で、俺も何度か行ったことがある。

席数は少なく、昼時は一杯になってしまうかもと懸念したが、幸い2人分は空いていた。テーブル席に着き、向かい合って座る。

「夏希さん!今日は旦那さんと一緒にランチに来てくださるなんて、珍しいですね」

女性の店長と夏希は懇意で、普段よくカフェを利用しているせいか、そんな風に屈託なく話しかけてくる。
バイトの若い男の子がオーダーを取りに来た。俺も彼のことは知っていて、何度か話したことがある。

「やっぱりオススメはローストビーフ丼でしょ?」
「そうですね」
「じゃあ私それ。遼太郎さんは?」
「俺も同じでいい」
「じゃ、2つ」

はい、と彼はにこやかな笑顔でオーダーを取り、厨房へ去っていく。

「ここでランチ食べるの、確かにすごく久しぶり。ケーキ買ってく? 家で食べようか?」

はしゃぎながら夏希は少し離れたショーケースを眺める。

「なんか焼き菓子でも買って、散歩しながら食べるのもいいんじゃないか」
「あ、いいねそれ。川沿い上がってお散歩しよう」

俺は窓の外を見る。

住宅街の中だから、景色がいいわけではない。柔らかな日差しの中に、なんとなく心に翳を感じてしまう。

「遼太郎さん、仕事で何かあったの? いつもの遼太郎さんらしくない顔してる」

俺の悪いところは、そういうものがすぐ表に出ることだ。そもそも隠すのが苦手なのだ。

「夏希は、どうして俺を好きになった?」
「なに? どうしたの突然」

夏希は豆鉄砲食らったような顔をする。無理もないが。

「なんか、イベントもあったから、ふと思って」
「今さら?」
「まぁそうだけど…」

そこへタイミングよく料理が運ばれてきた。夏希はカメラに収めてSNSにアップした。

「美味しそ。いただきまーす」

一口頬張って、幸せそうな笑みを浮かべる夏希を見て、俺も食べ始める。
クスクスと、夏希が笑う。

「なんだよ」
「遼太郎さんって、口いっぱいに頬張るよね。そういうところ、ギャップがあってかわいいと思う。そういうところも好きだし…あ、そうじゃなくて、どうして好きになった、か」

俺はなるべく大人しく食べようと、一口を小さくとった。

「やだ、気にしないで。いいところなんだから。で、どうして好きになった、か…。そうね…入社してすぐの頃から、若いのに主任ですごく仕事できるんだろうなって思ってたし、実際にめちゃくちゃ頭の切れる人だなって思ったし。でも情に厚いとこもあって、みんなからの信頼も厚くて、憧れてたからな。憧れと恋心って、どこか曖昧だったのかもしれないけど。でもはっきり自覚したのは、退職後に再会してからよ。何度か会ってるうちに、あぁやっぱり私、この人のこと好きなんだなぁって」

「一緒に仕事してた経緯もあったからか」

「それはあるねきっと。じゃあ、遼太郎さんはどうして私を選んだの? 社内でも遼太郎さんはすっごくモテてたし、私なんかよりハイスペックの女の人、たくさんいたと思うのに」

サッと、前田の姿が頭を過ぎる。

「スペックって観点で女性を見たことはないけど。まぁ俺も、一緒に仕事したって背景は大きいと思うな。俺の部下の中でも、一番意外な成長をしたから、印象は強かったな」

「意外ってことは、仕事出来無さそうだなって思ってたってこと?」

夏希はやや頬を膨らませる。

「まぁ、期待以上だったってことだよ」
「物は言いようね!」

俺は苦笑いした。

「あとは、俺も再会後に会っているうちに、こんな風に笑うんだとか、なんか居心地いいなって思うようになって…って感じだな」
「それと、遠距離が返って、結びつきを強くした、かな」
「そうだな」

食事が終わってバイトくんが下膳がてら「コーヒーでも持ってきましょうか」と訊く。2人ともお願いした。

「でも私ね、未だに不思議に思うの。遼太郎さんがどうして私を選んだのかとか、今こうして一緒にいることとか」

バイトくんの後ろ姿を見送りながら、夏希は言った。
「不思議?」

「さっきも言ったけど、遼太郎さんモテてたから。何で私?って。たまたま私も遼太郎さんもひとりで、ひとり同士で出逢えたから先に進めて…。で、思うの。この世に何億もの人がいるのに、たったひとり同士が出逢って結ばれることが、どれだけ奇跡的なことなのかって」

伏目がちに夏希は静かに言った。

「もう少し時期がズレていたら、遼太郎さんには彼女がいたかもしれない。そうしたら今の私はいない。私はなんて幸せ者なんだろうって思う」

前田のことを思う。タイミングなんて言い出したら切りがない。
だからこそ、彼女の告白は聞かないでいたかった。
やはり知らずにいたかった。

コーヒーが運ばれてくる。その香りに夏希はうっとりとした表情を浮かべる。そしてカップに視線を落としたまま、言った。

「遼太郎さん、誰か現れた? 好きな人?」

「いや…!違うよ」

思わず語気を強めてしまった。しかし夏希は動じた様子もない。

俺は素直に話すことにした。

「実は昨日、同僚に告白された。もちろん結婚していることは知っているし、ただ、好きなままいさせて欲しいと。それ以上は何も求めない、何も壊すつもりはないって」

夏希はそっか、と小さく呟く。

「遼太郎さんは、その人のこと、気になる?」
「仕事仲間以上の気持ちはないよ。本当に」
「私はその人の気持ち、わかる。私と同じだから」

ハッとして夏希の顔を見る。思った以上に穏やかな顔をしていた。

「ごめんねって思う。私がいなかったら、辛い思いしないで済んだかもしれないのに。でもだから、奇跡的で、すごいことだって思う。私が今、遼太郎さんといることが。遼太郎さんがドイツにいる間はすっごい辛かったけれど、遼太郎さんが乗り越えさせてくれた。もう挫けそうになった2年目の夏の時、あなたがわざわざドイツからとんぼ返りで来てくれた時。ものすごい迷惑をかけたと思うけど、どんなに嬉しかったか。あなたでなければ、強くなれなかった」

その時俺は、情けない顔をしていたかもしれない。

「どんなものよりも煌めいてる。遼太郎さんとの今までも、これからも。だからその人にはごめんって思うけど、絶対に守りたい」

 * * *

夏希が席を外している間、バイトくんが小声で話しかけてきた。

「遼さん、さっきちょろっと会話が聞こえてしまったんですけど…、遼さんは本当に浮気とかあり得ないって思ってます?」

俺は少しバツが悪くなって顔をしかめた。しかしそこは男同士、素直に話した。

「気にはなるけど、関係を持とうとは思わないな」
「マジで言ってます?」
「マジだよ。だって俺、夏希にメロメロだもん」

ヒャー、と聞いていたバイト君の方が恥ずかしがった。

「俺は夏希をすべてから守らないといけないと思ってる。彼女に降りかかるどんな希望も絶望も、俺が受け止めようと思ってる。遠距離中につらい思いをたくさんさせたから、もうそんな思いはさせたくない」
「遠距離って遼さんもつらかったんじゃないですか?そこは同じなんじゃ」
「待たせるより、待つ方がつらいだろう」

そこへ夏希が戻ってきて、バイトくんも下がっていった。

「何話してたの?」
「男同士の話、かな」

あっそ、と言った後、夏希はいたずらっぽく微笑んだ。

会計の時に、バイトくんは今度は夏希に話しかけた。

「夏希さんと遼さん、本当にいい夫婦ですよね」
「なにそれ?」
「いや、なんか」
「だって、お互いにとって世界一大切な人だもの」

バイト君はまたヒャー、と声を上げる。

「なんなんすか2人とも。理想的すぎますよ。羨ましい。俺もこんな結婚できるかなぁ」
「そんなこと言ってるうちは無理でしょうよ」

店長の女性がたしなめた。

「ね、お菓子買ってくでしょ? フィナンシェとマフィン、2個ずつお願い。あと持ち帰り用のカフェオレも2つ」

夏希がレジ横の菓子を抱えて、そう言った。


店を出てすぐのところに遊歩道があり、川沿いを散歩する。

「さっきの告白されたって話…どうして私に言ったの?」

「聞きたくなかったか、やっぱり」

「ううん、そうじゃないけど」

「なんかわからなくなって。俺が彼女の想いを知ってしまったことで、秘密を抱えたような重たい気持ちになって。それを夏希に話しても意味ないこともわかっているのに、スッキリしなくて。ただ単に俺のエゴだな」

「洗いざらい全部話していたら、大変じゃない?」

「秘密はあってもいいもの?」

「う~ん。難しいね…。秘密は仕方ないのかな…。でも嘘は付きたくないかな。必要な嘘っていうのももちろんあるだろうけど、遼太郎さんには全てをさらけ出したいっていうか、それでも信じられるっていうか、信じて欲しいっていうか」

夏希はベンチを指差して「ここ座って食べよ」と紙袋をヒラヒラさせた。

午後は日差しの傾きを感じたが、風はなく過ごしやすかった。
夏希は買ってきたマフィンを取り出して、俺にも1つ渡してくれた。
「美味し」
頬張ってニッコリと微笑む。

「彼女、俺に訊いてきたことがあるんだ。絶望したことありますか、って」

夏希は左手で日差しを遮りながら俺を見た。

「なんて答えたの?」
「それなりにあるけど…、夏希との間では、感じたことはない、と言った」
「そうなの?」
「自分の無力さを感じたことはあるけれど、絶望じゃない。絶対に諦めなかった。だから、今こうしてる。だろ?」

うん、と夏希は微笑んで頷いた。

「その人はきっと、自分の好きな人が遼太郎さんになって、絶望したのかな」

俺は黙っていた。夏希は真っ直ぐに俺を見て言った。

「私を絶望から救ってくれたのは、遼太郎さん。あなただから」

俺は左手で夏希の頬に触れた。「そりゃ良かった」

「遼太郎さん、私は大丈夫。遼太郎さんがどれだけ私のことを思ってくれているか、私、ちゃんとわかってる。だから、動揺したりしないで。もしかしたらこれからもどんどん告白されるかもしれないし」

おどけたように言う。

「どんどん告白されても困るよ」

たまらず俺も言った。

川面が光を反射して眩しく煌めいている。
しかしその煌めきですら、目の前のこの女性に適うはずもない。

冬の短い、かすかな暖かさを感じていた。




END

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