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【シリーズ連載・Guilty】Unbalance #9

~紗都香


私がバーテンダーからメモを受け取った翌日、火曜の朝。
職場でPCを開くと、遼太郎くんから関係者に一斉配信された『担当者変更のお知らせ』メールが届いていた。
担当がカン・チェヨンに替わること、次回の定例会は自分は参加できないため、月末に改めて挨拶に上がる旨などが記載されていた。受信日時は昨日の23:36。

ここしばらくの定例会は彼女が進行していた。チームメンバーはむしろ違和感なく彼女を受け入れている。『野島さん、ちょっとキツイ時があったから、新人さんだけどしっかりしてそうなカンさんに替わって、ちょっとホッとしています』という女性社員もいた。

私はひとり愕然とした。夫が手を回したのではないか、と考えたからだ。いや、まさかそこまではしないだろう。とはいえ、タイミングが良すぎる。

昨夜、バーテンダーに渡された彼からのメモは手帳に挟んであった。それを開く。

Nullum putaveris esse locum sine teste.
あなたはご無事ですか?

仕事の方はご心配なく

                              野島遼太郎


バーテンダーからメモを受け取った時、その時の彼の様子を訊いた。

先週末、23時を回ったくらいに訪れ、今日の私と同じようにギムレットを注文したという。
バーテンダーに向かって『僕を憶えていますか』と訊き、頷くと手帳からページを1枚破いてペンを走らせ『九園さん、きっと来るから渡して頂けませんか』と手渡されたとのこと。

“Nullum putaveris esse locum sine teste.”
ラテン語で書くなんて、たまに妙な背伸びをする彼らしい。訳すと "壁に耳あり障子に目あり"となる。つまり浮気がばれ、それを遼太郎くんが知っているということだ。やはり夫の接触があったのだろう。

『私の夫がここへ来たの…?』

思わず口にしてもバーテンダーは小さく肩を竦める。野暮な話だ。バーテンダーは夫の顔を知らない。名乗りあげない限り知る由もない。

再びメモに目を落とし、わざわざこんな古風な手法で私にメッセージを残し、しかも私の身を案じてくれているなんて、皮肉なのか優しさなのか、わずかな愛なのか。それでもどうしようもなく、嬉しかった。

『彼はどんな様子だった?』

バーテンダーは一度思慮するように目を伏せた後、小さく頷いて切り出した。

『とても物静かに落ち着かれた様子で、じっくりとギムレットをお召し上がりになられました』
『そう…』
『以前から感じていましたが、佇まいの美しい方ですね。品を感じます』
『外面が良いのかしら。かしこまってるのよ。下品とは言わないけれど、食事なんてね、子供みたいに盛り盛り食べるし、やんちゃなのよ』
『だとしたらそれは仮面なのかもしれませんね』

仮面…。
バーテンダーの観察眼の鋭さに感嘆した。
でも、どちらが仮面なのだろう。

『彼はまた来るかしら』

バーテンダーは僅かに顔をしかめ『どうでしょうね』と言う。そんなこと訊かれたってどうとも答えられないことはわかっている。

私は紙ナプキンにペンを走らせ、畳んでバーテンダーに託した。

「もし彼が来たら、これを渡して」

そして私もギムレットを傾けた。



“仕事の方はご心配なく” とは、今後もそこは割り切って問題なく進めますよ、という意味だと思っていた。


しかし、彼は退陣した。思った以上の圧力を夫がかけたのか。


***


帰宅後、夫が帰ってくるなり玄関先で尋ねた。

「野島さんに会ったの?」

靴を脱ぎながら、少々間の抜けた様子で夫は「あぁ」と答える。

「金曜の夜と、昨夜も少しだけ」

昨夜…だとしたら担当者変更の連絡メールは、その後に送ったのだろうか。夫に圧を掛けられたから…?

「何を話したの?」
「普通の話だよ。僕の奥さんを知ってるよねとか」
「…他には?」
「もっと詳しく訊きたいの? 君の耳が痛むんじゃないかと心配しているんだけど」
「どういう…こと…?」
「“立派な営業マンとはいえ、枕営業はよろしくないね” とか」
「ま…!」

私は激昂した。

「そんなことしていないわ!」
「まぁまぁ、取り乱さないで」

部屋着に着替えた夫はリビングのテーブルに着きながら「ビールあるかな」と言った。

私は冷蔵庫から瓶ビール1本とグラスを持ち出し、夫が手にしたグラスに注いだ。

「お金の話とか、したの?」
「お金? 慰謝料のこと? そんな気の毒なこと、あんなに若い子にしないよ。恥ずかしい。いくら彼がいいとこのお坊ちゃんだとしてもさ。まさか僕がそんなお金に困ってるように見えるの?」

私は黙って首を横に振った。

「親父さんに垂れ込むにしたって地方じゃあなぁ、インパクトも小さいし」
「…?」
「まぁでも、彼はなかなかの賜物だよね。こんな一件がなかったらヘッドハンティングしたいところだったよ」

夫は美味そうに喉を鳴らしながらグラスのビールを半分ほど空けた。話が突飛になり戸惑う。

「どういう…」
「若いくせに堂々としてさ、一切物怖じしない、怯まない」
「…」
「責任転嫁もしない。あぁいう時は大抵さ、"僕だけが悪いんじゃない" なんて情けない面を出したりするじゃないか。でも彼は "僕が彼女を騙して、遊ばせてもらったんです" とか言いやがった」
「えっ…?」
「"彼女は被害者です" だとよ。顔色一つ変えもせず飄々と。男の僕が見たって美しい顔してるくせに男気があってさ、むしろなんか気に入っちゃったよ」

ハハハ、と笑う夫に呆然としていると、急に睨みつけながら「生意気も突き抜けると笑うしかないね。きつくお灸を据えておいた」と言った。

「きつく…って…。何をしたの?」
「あんまりきれいな顔してるから、その顔が歪むところ見たくなっちゃってね。おっと、口が滑ったな」

睨みつけていた夫の顔が、ニヤリと不気味に崩れる。

「まさか…彼…うちの担当を外れるって今朝、メールを寄越したのよ。まさか暴力で圧力を掛けたの?」
「軽くだよ、かる~く。あれ、でももう担当外れたの? 仕事が早いなぁ。生意気だけど素直なんだなぁ。おかしな奴。いやぁ本当に惜しい。僕の手元に置いて一緒に働いてみたかったよ」

膝の上で握った私の拳は、震えていた。



***


木曜日の定例会議。
予告通り、姿を現したのはカン・チェヨン、一人だった。

「本日より御社の担当を務めさせていただきます、カン・チェヨンです。改めましてよろしくお願いいたします。前担当の野島が欠席となり、ご挨拶も出来ず申し訳ありません。日を改めて伺わせていただきます。それでは始めて参ります」

就任の挨拶にこちら側のメンバーは温かい笑顔と拍手を送った。男性陣はもちろんのこと、女性陣にとっても彼女はウケがいい。ちょっとおかしなイントネーションになるところが返って愛嬌があって良い、と言うのだ。

「入社してまだ3ヶ月とは思えないくらい、本当にしっかりしてますよね」

そんな声も挙がる。確かに優秀なことはよくわかる。会議の準備も入念に行っていることが容易に知れる。遼太郎くんの指導の賜物でもあるのだろう。


「九園さま」

会議終了後、カン・チェヨンが私に話し掛けてきた。

「野島に比べたら至らない点が多くご迷惑をおかけするかも知れませんが、どうぞよろしくお願いいたします」

そういって身体を90度に近いくらいに折る。
彼女は私が気に入っていないことをわかっているのだ。でもそれも、遼太郎くんのことがあってのこと。全く恥ずかしい話だ。
今となっては彼の側にいるこの子に、救いの手を求めたいくらいだった。

「いえ。野島さんがおっしゃっていた通り、優秀な方だということは2回目の時からわかっていましたよ。安心してお任せしていけます」
「さようですか。ありがとうございます」
「野島さんは、どうされてるの? お元気でいらっしゃる?」

そう尋ねると彼女の表情が僅かに曇る。

「あ…はい。社内で炎上しているプロジェクトがありまして、火消しに回ることになったと苦笑いしておりました」

まるで台本で練習してきたかのような、彼女らしくない正しい・・・発音だった。気掛かりだ。

「そう…お身体に気をつけて、と伝えてくださいね。遅くまで仕事しているみたいだから。ご挨拶にらっしゃる時にお会いできるのを楽しみにしているわ」

彼女はサッと青い顔をしたがそれを隠すように頭を下げ、退室した。






#10へつづく

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