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いずれ、スマホ撮影だけでフォトグラファーを名乗るような人になりたい。

「いずれ、スマホだけでフォトグラファーを名乗るような人になりたい」という気持ちがあります。これは夢というよりも、「そう成らざるを得ないだろう」と思っているので、今の私はそのための下準備をしている段階です。
「スマホだけで撮影することにしたい」ということではなく、「カメラでの撮影に固執しない」という意味です。

一眼レフを使わずに活動しているフォトグラファーは、実は案外います。私の知り合いのフォトグラファーは一時期、使い捨てカメラでの撮影にハマっていましたし、こちらはアルジェリアのスマホフォトグラファーの記事です。

日本のカメラ市場に思うこと

けれど実際、日本の多くのフォトグラファーは、カメラやレンズやライトなど機材が好きです。
そのニーズに答え続けたのか、そのニーズを生んだのか、日本のカメラ市場は「レンズ至上主義」です。「レンズを売りたい」という枠から出ることなく、今日まで突き進んで来ました。

「カメラマンはカメラやレンズが好き」というのは、当たり前のことのように思うかもしれませんが、それこそがとても歪な状態であり、「ガラケーの終焉の頃に似ている」とも感じています。ある意味で、"今の日本人らしい"とも言えます。
“型”が好きで、職人らしい仕事や、機械らしい機械が好きで、ディテールのアップデートが好きで、それが故に日本からiPhoneは生まれませんでした。

そして、カールツァイスが「ZEISS ZX1」を発表しました。
ZEISS ZX1は、フルサイズセンサー搭載のレンズ一体型カメラで、Adobe Lightroom CCもAndroid OSも搭載、Wi-Fi、Bluetooth、NFCに対応しています。つまり交換レンズを買わせる気が無く、レタッチ作業もWEBへの共有などもカメラ一台で完結させられる仕様になっている、ということです。
日本のカメラメーカーがこれを作れなかったことについて、私は少し残念に思っています。
レンズを出しては集めてを繰り返している日本の市場を横目に、カールツァイスは「カメラを新しく再定義する」試みをしていました。これは、日本がガラケーのアップデートをしている間に、Appleが電話を再定義した時と似ています。

とはいえ、これについてただ嘆きたいわけではありません。
「なぜこうなったのか」をもう少し掘り下げた後、「ではこの先どうなるのか」「自分はどう在りたいか」ということを、順にお話ししたいと思います。

なぜこうなったのか

ここで私が言っている「今の日本人らしい」について、もう少し掘り下げます。
これは決して「無意味な細かいアップデートが好きだよね」という短絡的な皮肉ではなく、もう少し深刻な課題が含まれています。
それは「作家性の欠如」です。

日本のクリエイターは構造的に立場が弱いことが多く、フォトグラファーも例外ではありません。仕事上で技術的に求められるのでカメラを勉強したり、自分が撮りたい作品性よりも商業的に求められるものを撮るようになる人が多いです。そうした世界に身を置くと、「“カメラやレンズやそのほか機材を使って撮影をすること”が自分は“好き”」、そして「それによって“稼ぐこと”が自分の“目的”」と認識してしまう人が増えるわけです。
つまり「撮影というのはあくまで表現方法の一つに過ぎず、カメラもレンズもそのための道具に過ぎず、いずれも自分が表現したいものを表現するための手段でしかない」ということを忘れるのです。

「撮影で稼ぐこと」自体が目的になっているフォトグラファーが溢れていては、「撮影という方法を使って何を表現したいか」ということについて真剣に向き合ったことが無い人が多い、ということに他なりません。
自分の目的を掘り下げたり、自分のクリエイティブと向き合うというのは、「カメラという道具があっても無くても、表現したい何か」を見つけたり追求するということです。

これまでは、そんなことと向き合わなくても問題ありませんでした。撮影テクニックがある人は、まだ何年か先まで、当分はニーズもあるでしょう。
しかし、そうも言っていられなくなります。

ではこの先どうなるのか

先ず、カメラは緩やかに無くなっていくと思います。
物理的に存在が無くなるのではなく、再定義されて今の役割から変わっていくという意味です。具体的には“今の腕時計のようなもの”に。
腕時計は一昔前まで“仕事道具に必須”でしたが、今はスマホがあり、必要ではなくなりました。ただ、ファッションアクセサリーや嗜好品、或いはスマホと連動させたツールとしてなど「必ず要る物」ではなくなっても別の価値・新しい役割が置かれました。好きで新しい腕時計を集めている人も、古い腕時計を長く大切にしている人も、います。
そういう意味で、個人的な予想ですが何十年か後には、一眼レフは、今の“腕時計のようなもの”になるのではと考えています。

とはいえ、撮影の仕事が全く無くなるということも、少なくとも何十年か先までは無い気がしています。
例えば、かつて、お見合い写真も家族写真も「写真館で撮影して貰うフォーマルなもの」から「カジュアルな雰囲気で公園など屋外で出張撮影して貰えるもの」にシフトされました。
街の写真屋が無くなり、紙のアルバムが売れなくても、インスタ映えのための装飾や衣装が売れたり、雑誌が無くなる中でインスタやYouTubeの撮影は増えました。
無くなっていくものもあれば新しいものも出て来るのは、撮影に限らず、多くの業界が同じですね。

きっと、カメラ業界はレンズを売りたい呪縛から抜け出さなければならないし、アパレル業界は大量廃棄という課題と向き合わなければならないし、テレビ業界はWEBとの共生を受け入れなければならないし、それらと同様に、クリエイターもビジネスパーソンも、自分の本当の目的を掘り下げないままの前進はきっと無いのだと思います。

例えば、外出しなくても生活できる社会で、生き残った飲食店と潰れた飲食店の差は何だったのでしょうか。
ファンがいたり、助け合える横の繋がりがあったかどうかが、命運を分けたと思います。それは、根幹に「どう在りたいか」を常に問うて、自分と顧客と向き合っていたかどうかということでもあります。
「腕が良いかどうか」だけでなく、価格に対するお得感でもなく、立地でもなく「この店から買いたい」「この人に依頼したい」そう心から思って貰えているかどうかが大事です。

ただ、人柄さえ良ければ生き残れるかというと、そういうわけでも無いんですよね。テクニックだけでも人柄だけでもなく、これから必要になるのは「作家性」だと考えています。
作家性は、オリジナリティと同義で使われがちですが、少し異なります。
差別化のために出す個性ではなく、滲み出てくる癖でもあり、ある種の狂気性でもあると思います。

自分はどう在りたいか

テクニックも無ければ、カメラという道具への執着もそんなに無い、私のような人間にとっては深刻なようでいて、実は固執するものが無いのは自由でもあります。

私がこれまで見た中で最も心に刺さった写真集は、被写体と撮影者それぞれの核に迫っているような熱量が感じられて、尚且つ自然体なものでした。ここで言う自然体とは肩の力が抜けているということですが、肩の力が抜けているのに生への肯定をする熱量がある写真たちです。

例えば、伊原美代子さんの「みさおとふくまる」は、本当に好きです。「こんな写真を撮りたい!」と心底思える、被写体への愛が溢れた写真たちです。

植本一子さんの「うれしい生活」は、衝撃的でした。自然光でフィルムのコンパクトカメラで撮られていて、自身の家族写真のアルバムのようでいて、どこか醒めているというか一定の距離感があって、温かいのに覚悟が確かにあって、「日常の隣にずっと死がある」と静かに伝わる写真集でした。

他にも、「写真は好みではないけど文章が好き」な人や、「作品はよく分からないけど生き方には憧れている」人もいます。いずれも、「自分はこれを伝えたい」という確固たるものが伝わってくる人や作品です。

私自身も、常に「自分はこの撮影や文章を通して何を伝えたいのか」を問い続け、自分のクリエイティブと向き合い続ける人で在りたいです。
その延長線上であれば、フィールドも道具もテーマも、何か一つに固執する必要は無く、軽やかに、たとえスマホだけでも、自分にしかできない表現をできるような生き方をしたいと、そんなふうに思っています。

今回もここまで読んでくださってありがとうございました。

最近、noteの定期マガジンの読者が少しずつ増えていて、本当に有り難いです。
正直な話ばかり書いているので、きっと、直接少し会って話したことがあるくらいの人よりも、がっつりnoteを読んでくださっているマガジン購読者のほうが、私を理解して貰えているとも思います。
自分の視点にこんなに興味を持ってくれる人がいることに驚きもあり、励みにもなります。今後も頑張ります。

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