予測された未来 スティーブン・ソダー・バーグ『コンテイジョン』

2011年の時点で現在を予言していたと最近話題の映画、『コンテイジョン』。パニックによる買い占め、封鎖される都市、医療従事者の感染、不平等なワクチン配布、確かに映画は現在と酷似している部分が多々ある。この映画の監修者は、疫学の学者たちは過去10年から15年前からいつかこういったパンデミックが必ず起こると主張してきたと言い、実際この映画の監修もその警告を人々に耳を傾けて欲しかった為に引き受けたという。つまり現在とは高確率で予測されていた未来なのである。

https://wired.jp/2020/03/25/coronavirus-interview-larry-brilliant-smallpox-epidemiologist/

上の記事によると、科学者たちは常にこういった事体を予測し、それに対する施策を講じるよう提言してきたが、2018年にトランプ米大統領はパンデミックが起きた場合の対策部門を率いていた人物を解任し、組織再編によって部署は解体、スタッフ全員が辞めさせられたという。つまりこの時点で米国においては科学的見地よりコストカットを優先した訳だが、ニューヨークを始めコロナの封じ込めに失敗した惨状を見ていると、この時科学者達の助言に従っていれば、今とは違った未来があったと考えずにはいられない。更にここ日本においては、現在の状況下でも依然として人の命や健康よりも経済を優先した政策が行われているのは、映画以上の悲劇である。

映画の中でウィルスの発生から感染が拡大し、人々に恐怖が広がっていくとともに社会機能が崩壊していく。それに対して一般市民、WHO職員、医師、インフルエンサー等様々な立場から人がどうウィルスにどう対処していくかが描かれるが、それは現在の状況と照らし合わせてもどこか示唆的である。登場人物たちはそれぞれが一様に皆追い詰められていく。情報を明かさない政府、ネットにはフェイクニュースが溢れ出し、市民は大切な人を守ろうと疑心暗鬼になる。食料は底をつき、困窮した先には暴動がある。常に死の危険に晒される医療従事者たちは苛烈な犠牲を強いられる。現地調査を行っていた医師が感染し、看護師組合がスト中で搬送するための医療施設が見つからず死んでいく。スト中の病院は過酷な環境で、ボランティア従事者が治療に当たり、夥しい数の墓の前に、遺体袋は底をつく。ワクチンを開発した医師は少しでも実用化を早める為、自らを治験の実験台にするが、このワクチンの配布に対して一体誰が優先されるのかが、映画では如実に描かれる。

誰が先にワクチンを手にするのか

看護師、スーパー、ドラックストアの店員、UberEats、Amazonの配達員、この状況下でも働かなければならない者達は、現在もそしてこれまでも決してそのリスクに見合った給与を手にしてはいない。それでもこの状況下で彼ら彼女らが働き続けるのは、そうしないと生活が成り立たないからであり、死のリスクはこういった者達が最も高くなる。我々はコロナによる死は平等ではないという事を知っているが、この映画でもそれが体現されている。

罹患するリスクに順番があるように、ワクチンを手にするにも順番がある。中国では政府職員が感染した故郷の村人たちの為にWHOの医師を誘拐し、ワクチン獲得の取引材料にしようとする。村人たちは自分たちがワクチン配布を待つ「列の最後尾」であり、持たざる民であること知っている。ワクチンは欧米の金持ちの強者達から手にすることになり、だからこそ誘拐という行為を通してその序列の転覆と生存への覚悟を見せようとする。何もせずに黙って待っていたら、真っ先に死ぬのが自分たちであるという事を知っているからだ。現実でも先日安倍、麻生邸周辺でのデモを敢行した人々いたが、彼ら/彼女らも声をあげなければ死ぬのが分かっている。保障なき自粛要請で政府から兵糧攻めされている中、飢え死にするかコロナで死ぬかの二択を迫られている状態で、取引材料は自らの身体のみである。人々は自らの体一つで抵抗し、生を希求し、今まさに自らを殺さんと首を絞めている腕を振り払おうとする。例え病に蝕まれようとも。世界で、とりわけ現在日本政府が推し進める棄民政策はこの社会の何もかもを奪っていくが、映画の中では世界中で同様の誘拐が多発する中、政府は誘拐犯と交渉しないとして本物のワクチンを手にすることは出来ない。

そして映画の中で誰よりも先に自らの大切な人を守ろうとするのは中国の場面だけではない。ワクチンが開発されると、誕生日によるくじ引きで配布順が決定されるが、CDC(疾病予防管理センター)の職員は誰よりも先に自分の大切なものを守ろうと、愛する人、そして友人に決定された順番よりも早くワクチンを届ける。誰もが自分の大切な人を守りたい中、守れる者と守れない者が同時に描かれる。その残酷さに我々は日々現実でも疲弊していっている

この不平等について、我々は自分たちも同じような道を辿ることに薄々気付いている。経済的なものであれ肉体的なものであれ、死は他人ごとではなく、自分の大切な人は助からないかもしれない。この騒ぎが収束した後に待ち受ける風景が、全焼した焼け野原のなのか再建可能な半壊状態なのか、それはまだ分からない。

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