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一人っ子でO型、典型的なワガママ爺。埼玉県在住 66歳。小学校~高校3年生までの5人の…

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一人っ子でO型、典型的なワガママ爺。埼玉県在住 66歳。小学校~高校3年生までの5人の男の孫有り。独身の使えない息子と、ほとんど会話の無い奥さんとの3人暮らし。定年退職して年金暮らしで、推し生活を楽しんでいる。

最近の記事

2024/06/2思い出21         初めての学会発表とインド訪問 仕事で一番輝いていた時代

前回の投稿では国際学会での発表について触れましたが、今回は遡ること10年前、初めての学会発表についてお話しします。 それは、H.A.部長がまだ在籍していた1984年のこと。ちょうどHPLCカラムのC18-2シリーズが発売された年で、私は27歳、できちゃった結婚をしたばかりでした。 40年前の学会発表は、現在と比べると使用する道具も異なり、今では懐かしい思い出です。当時の学会参加料は、今と大きく変わっていないと思います。 学会の種類や会員の有無、申し込み時期によって異なりますが

    • 思い出20  HPLC国際学会への参加とポスター発表

      私が入社した頃は、海外輸出はほとんどありませんでした。 しかし、1987年に上市したHPLCカラムC18-2シリーズは、弊社として初めて海外で認められた製品となりました。 1994年には、海外売上が会社全体の1%を超えるようになり、1995年には新たなHPLCカラムC18-3シリーズが追加発売され、その後毎年、海外販売は大きく伸びます。 2010年頃には売上の5%を、2020年には10%を超えるまでになりました。 私はその開発に従事し、製品が海外で高評価を受ける状況を体験しま

      • 思い出19  種々の経験ができた海外展示会への参加

        クロマトグラフィー関連の事業は、分析機器や科学機器メーカーが担っており、その業界では一堂に会する展示会が定期的に開催されています。 国内では、東京モーターショーやゲームショーで有名な幕張メッセで、JASIS(日本分析機器展)が年1回開催されています。 入社する前から、弊社は国内で開催される展示会に出展しており、毎年最新情報を得るために、多くの社員が見学し、説明員も行います。 1990年頃からは、HPLC充填剤C18-2が発売され、お客様向けの企業セミナーも開催されるようになり

        • 思い出18  液体クロマトグラフィーカラムの開発

          液体クロマトグラフィーでは、試料がインジェクターから注入され、送液ポンプによって流される溶媒によって、液体クロマトグラフィーカラムに導入され、分離され、検出器で電気信号に変換され、データ処理器でクロマトグラムが記録されます。 液体クロマトグラフィーでは、直径4.6mm、長さ150mmのステンレスカラムに、0.005mm(5μm)の球状シリカゲルにオクタデカン(C18)などの炭化水素をシリル化反応で化学結合した充填剤を用います。 液体クロマトグラフィー装置、通称HPLCでは、水

        2024/06/2思い出21         初めての学会発表とインド訪問 仕事で一番輝いていた時代

          思い出17 ガスクロマトグラフィーカラムの開発

          自分史を作り始めて、これまでの6か月は、周囲の状況やお世話になった人々に焦点を当て、自分中心の出来事が思い出しやすかったように感じます。書きながら、さまざまな出来事を思い出し、楽しい時間を過ごしました。 しかし、就職後は状況が異なり、会社の歴史、家族の歴史、そして自分自身の歴史が交差するため、簡単な年表がないと整理が難しいと感じました。 以下に、主な年表をまとめてみました。 1968年: ガスクロマトグラフィ関連事業として、M社長がG社を設立。      新宿の貸しビルに

          思い出17 ガスクロマトグラフィーカラムの開発

          思い出16 幸運だった会社の遍歴とクロマトグラフィー

          同族経営に対する不満から、M社長が立ち上げたこの会社は、技術と利益を公正に分配することを目指していました。 事業分野としては何でも良かったと言うことでした。 クロマトグラフィーは、前会社から受け継いだものであり、新たな分野としての挑戦でした。 この技術は海外からの技術であり、輸入品が市場を席巻していました。 当時の為替レートが1ドル200-250円であったことから、輸入品は高価であり、安価な同等の国産品があれば、使ってもらえ、老舗国内メーカーもありました。 また、ユーザーから

          思い出16 幸運だった会社の遍歴とクロマトグラフィー

          思い出15              埼玉へ就職、新人の役割 独身時代 2

          M社長は、分析業界で老舗であったN工業に努めていたそうですが、会社名も含めて同族経営であったため、会社の物品などを私的に流用したり、トップを同族で占有したりしていたそうです。 同族の私利私欲のための会社で、嫌気が差し、同様に感じた数名で別のNK会社を設立したそうです。 ただ、NK社も一部の人達が利益を独占するようになり、根本の仕組みから変えた会社を設立するしか無いと感じ、それに共感したYM専務、YK常務と共に独立して、今のG社を創立したと言う事です。 その独立の時に、クロマト

          思い出15              埼玉へ就職、新人の役割 独身時代 2

          思い出14  埼玉へ就職、初めて一人暮らし、独身時代 1

          私がG社に就職したのは、西鉄ライオンズが西武ライオンズになり、本拠地が埼玉県の所沢に移った年でした。 埼玉に初めての野球チームがやって来るということで、地元は大いに盛り上がりました。 私は典型的な昭和っ子で、巨人・大鵬・卵焼きの世代でした。 名古屋場所の桟敷席で、大鵬対柏戸の取り組みを観戦したこともあります。 その時は柏戸が勝利し、座布団が舞い上がる瞬間を鮮明に覚えています。 ON時代の巨人対中日戦を数回観戦したことがありますが、パリーグでは日本シリーズに出場して、いつも巨

          思い出14  埼玉へ就職、初めて一人暮らし、独身時代 1

          思い出13 楽しい大学生活の卒業と就職活動 3

          大学時代は、遊ぶことに夢中で、勉学に励んだ記憶はありません。しかし、3年生の後半から卒論と就職活動が始まり、忙しさに追われる日々を送ります。 大学2年生の時、北海道旅行で知り合った奈良短大女子の学園祭に行く事になります。 私たちは名古屋に住む友人A君と共に、3台の車で学園祭に向かうことになりました。 携帯電話やナビゲーションシステムがない時代で、私たちはテールツーノーズで連なりながら、青山公園を抜ける山道を通り、奈良に向かいました。 この道は走り屋がよく利用するルートで、私た

          思い出13 楽しい大学生活の卒業と就職活動 3

          思い出12 大学時代の学園祭から北海道旅行の思い出2

          三重大学では、毎年一度の大学祭が開催され、各学科が様々な催し物を提供します。私が工業化学科の一年生の時、大きな風船をヘリウムで数十個膨らませ、それらを筏のような基体に結び付け、左右にプロペラを取り付けたラジコンで動く飛行船を作りました。そして、それを一般教養棟から工学部まで飛ばすという大胆な計画を立てました。 本体は発泡スチロールでできており、ラジコン本体も軽かったため、ヘリウム風船で浮力を得ていました。しかし、海風や風船の浮力影響に ラジコンのプロペラの推進力が完全に負け

          思い出12 大学時代の学園祭から北海道旅行の思い出2

          思い出11 楽しい大学生活の始まり。大学での思い出1

          三重大学は、三重県にある唯一の国立大学であり、近鉄江戸橋駅から徒歩10~15分の場所に位置しており、伊勢湾に面しています。 当時、駅に近い方から医学部、教育学部、農学部、水産学部、工学部の5つの学部が設置されていました。 ちなみに、医学部は三重大付属病院に隣接しており、キャンパスや建屋も別格でエレベータ付きで立派でした。 入学時の身体検査で、身長165cmで体重が110kgもあったので、三重大付属病院で検査するように言われてしまいました。 一日中の尿を、時間帯毎に溜めて、大学

          思い出11 楽しい大学生活の始まり。大学での思い出1

          思い出10 乗り換えてきた車の思い出

          三重大学は、近鉄電車で四日市駅から約30分の江戸橋に位置し、工学部は海岸側にあり、徒歩で約15分の場所にあります。 車で行くと、約30分で到着します。当時は校内で車を自由に移動できたので、1年の後半からは車で通学することになります。 受験終了後、自動車学校で免許取得に取り掛かりましたが、そこでもわがままな一面が現れました。当時は、教官の中にはバスなどの運転手を兼ねる方もおり、その中には横柄な態度の教官も多く、場内技能講習がなかなか進まず、何度か挫折を経験しました。 学校には入

          思い出10 乗り換えてきた車の思い出

          思い出9 高校生活から無理をしない大学受験

          四日市高校は、近鉄四日市駅から電車で約15分の富田駅の目の前に位置する名門の公立高校です。在籍生徒数は約450名で、12クラスに分かれています。 進学校であり、男女比は男性7割、女性3割でした。3年生になると、私立文系、国立文系、私立理系、国立理系の4つのコースに分かれ、14クラスに編成されます。 この学校は三重県内でトップクラスの進学実績を誇り、東京大学には約10名、名古屋大学には約50名が進学しています。さらに、慶應義塾大学や早稲田大学、同志社大学などの有名私立大学にも多

          思い出9 高校生活から無理をしない大学受験

          思い出8 初めての海外旅行 高校1年生夏休みのヨーロッパ旅

          家庭教師のお蔭で、無事、四日市高校に入学できましたが、四日市高校に関しては、次回、紹介する予定です。 高校1年生の夏休みに、初めて海外旅行に行っており、その思い出をNOTEに記録しておきます。 語学勉強を名目として、一ヶ月のヨーロッパ旅行に行かせてもらえました。当時はパスポートの発行も県庁で行い、予防注射も必要でした。 安価なパッケージツアーが登場し始め、認知度が増してきた時代です。同じクラスの友人がハワイに海外旅行に行っている姿も見られましたが、それはまだ珍しいことだったと

          思い出8 初めての海外旅行 高校1年生夏休みのヨーロッパ旅

          思い出7 中学校時代の思い出

          小学校高学年時、精神疾患になった親父の妹である叔母が入院することになります。 祖母は、世話をする入院する精神病院の傍に引っ越していきます。 そのため、私は、お袋側の叔母さん達にお世話になります。 中学校になると、私の部屋は2階の一番奥の洋間になります。 離れは、家庭教師などに勉強を教わったりする客間になります。 四日市市内小学校2.5区が集まる中部中学校に進学します。 1学年220名の5クラスで、3階建ての建屋でした。別途体育館とプールがありました。 プールは、小学校の時に

          思い出7 中学校時代の思い出

          思い出6 ~子供時代から結婚前までの長島温泉での思い出~

          長島温泉は、愛知県と三重県の県境に位置し、木曽川、長良川、揖斐川に囲まれた長細い洲の海端にあります。1964年に天然温泉が採掘され、温泉レジャーランドとして誕生しました。 私は小学校3年の頃から長女が中学校に進学するまでの32年間、長島温泉でさまざまな思い出を築きました。今やナガシマリゾートとして知られる場所ですが、私の心に刻まれた古き長島温泉の思い出をここに綴ります。 私の記憶に残る古き長島温泉では、小学校3年から中学校まで、謎のSさんに連れられて室内温水プールで遊んだり、

          思い出6 ~子供時代から結婚前までの長島温泉での思い出~