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沈黙とは「語ることなく語る」こと。

時折、言葉に詰まってしまうことがあります。決して語る事がないのではありません。語る言葉が見つからないのです。

ふと、「沈黙」とは「語ることなく語る」ことではないだろうか。そのようなことを思うわけです。

そして「語ることなく語る」ことは、生物も無生物も関係ない。身のまわりには、語ることなく語っている物事にあふれています。

例えば、日常的に使っているものの様子の変化。靴の踵のすり減り、食器の輝き、服の生地の質感(張りやシワ)、皮製品の色の変化などなど。それらは語ることなく自らの状態を語っています。ですから、自ら察して状態を良くする方向へと行動する必要があります。それは総じて「ケア(Care)」をすることを意味します。気にかける、ということ。

人の顔に刻まれたシワ、表情は、時にその人が歩んできた道程を語っているかもしれません。物質には記憶が宿っていると思うのです。素材の中には、形状を記憶する素材がありますが「形を維持する」というのは記憶のカタチの一つ。何かの形はそこに宿る記憶、語ることなく語られている過去、現在を意味している。

一見異なるように見える物事も「沈黙する」という述語で、あらゆる物事を統一的に包み込むことができるのではないでしょうか。述語的統一ですね。

「沈黙」は何も生み出していないのではなく、「想いを馳せる余白」を、数多の可能性を生み出しているのだと思います。

 何もかも言葉で言い表すことができるわけじゃあない。
 言葉はいつも何か形のあるものになぞらえて語ることができるだけだ。現実のことに言葉をあてがうだけ、そういうふうにしか表現できない。
 現実がそこにあっても、それにあてがう言葉を持ち合わせていなければ、口をつぐんでいるしかないじゃないか。
 ならば、誰かのひっそりした沈黙を、言うべきことがまったくないことの証拠だと思わないように。簡単に言葉にしがたいことをたくさん持っているのかもしれないのだから。

白取春彦『ヴィトゲンシュタイン 世界が変わる言葉』

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