他者から学びすぎないこと?
今日も引き続き『ソーシャル物理学 - 「良いアイデアはいかに広がるか」の新しい科学』(著:アレックス・ペントランド)より「常識が持つ意味」を読みました。
「常識が持つ意味」というタイトルがついた本節ですが、常識とはどのように身につけるものなのでしょうか。常識とは言い換えれば「アタリマエ」となるわけですが、ある日突然「これがアタリマエなんだ」と常識が身につくということではないように思います。
ある社会、環境に囲まれる中で、その環境との相互作用を繰り返しながら、認識や思考、行動のパターンが形成されていく。そのパターンが習慣、常識ということになるわけです。常識は社会的学習を通して身につけるもの、ということになります。
ですから、常識というのは置かれた環境や、人それ自身の固有性を内包しているわけです。誰かのアタリマエは自分のアタリマエではありません。
部分の意味は全体があるからこそ見出せますし、全体の意味は部分があるからこそ見出せる。部分と全体は切り離せないというのか、等価なように思います。
現代社会は個人を重視する傾向にある。とはいえ、真空状態の中で生きているわけではありません。他者に学ぶ。そうして常識を身につけていくのだとすれば、非常識になるためには、常識を破るためには他者から過度に学ぶのをやめる、ということが必要なのかもしれません。
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