他者から学びすぎないこと?

今日も引き続き『ソーシャル物理学 - 「良いアイデアはいかに広がるか」の新しい科学』(著:アレックス・ペントランド)より「常識が持つ意味」を読みました。

「常識が持つ意味」というタイトルがついた本節ですが、常識とはどのように身につけるものなのでしょうか。常識とは言い換えれば「アタリマエ」となるわけですが、ある日突然「これがアタリマエなんだ」と常識が身につくということではないように思います。

私たちの祖先は、文化や社会における習慣が社会的な契約であり、どちらも社会的学習の上に成り立っていることを理解していたのだろう。社会通念や習慣は、論理的な思考や議論から生まれるというよりも、仲間たちの態度や行動、その結果を観察することで習得される。人々がこうした社会契約を身につけ、強化していくことで、集団の中における行動が効果的に調整されるのだ。

ある社会、環境に囲まれる中で、その環境との相互作用を繰り返しながら、認識や思考、行動のパターンが形成されていく。そのパターンが習慣、常識ということになるわけです。常識は社会的学習を通して身につけるもの、ということになります。

ですから、常識というのは置かれた環境や、人それ自身の固有性を内包しているわけです。誰かのアタリマエは自分のアタリマエではありません。

現代社会は個人を重視する傾向にあるが、人間の意思決定の大部分は、仲間たちと共有する常識や習慣、信念などによって形作られる。そしてこうした習慣は、他人との交流を通じて形成される。私たちは常識を、周囲の人々が一般的に行っている行動の観察と真似を通じて、ほとんど無意識のうちに身につけるのである。

部分の意味は全体があるからこそ見出せますし、全体の意味は部分があるからこそ見出せる。部分と全体は切り離せないというのか、等価なように思います。

現代社会は個人を重視する傾向にある。とはいえ、真空状態の中で生きているわけではありません。他者に学ぶ。そうして常識を身につけていくのだとすれば、非常識になるためには、常識を破るためには他者から過度に学ぶのをやめる、ということが必要なのかもしれません。

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