「和して同ぜず」と「多体問題の安定解」
昨日は「雑」という言葉の奥行きを探ってみた。雑は多様性につながり、多様な存在の重なり合い、共通部分はゆらいでいる。そのようなことを思ったのだった。
「ゆらぎ」という言葉から、「多体問題」が頭に浮かんでくる。多体問題とは「互いに相互作用する3体以上からなる系を扱う問題」(Wikipedia)である。3つ以上の物体(あるいは存在)が互いに相互作用するとは、何かしらの関係性、つながりを持っているということに他ならない。
多体問題の定義を眺めていると、物理的な枠組みを超えて、日常それ自体が多体問題なのだと気づかされる。私たちは真空状態の中で孤立して存在しているのではなく、自分を取り巻く他者、環境と関わり合いながら自らの存在を維持している。
浅田秀樹『三体問題 天才たちを悩ませた400年の未解決問題』から言葉をいくつか引きながら「多体問題」と「ゆらぎ」の響き合いを探ってみたい。
「三」という小さな数でも、互いに関わり合う世界において、一般的な条件のもとで時間と共に変化する位置関係(解)を特定できない。そして、それは「カオス」つまり深淵な「混沌」世界の入り口になっている。
このことは、3つ以上の存在がつかず離れずの関係にあるかぎりでは、その将来の関係性(相対的な位置)がどのようなものであるかを予測することが極めて難しく、不確定であることを意味する。この不確定性は「ゆらぎ」につながっているように思える。
三つの存在のうち、いずれか2つが接近して同化すれば、三体問題が二体問題へと変化する。二体問題は一般的な条件のもとで将来の位置関係(解)が与えられることからすると、将来に未知の関係性、可能性を生み出すことは「三体以上の関係性・問題を作り出してみる」と言えるのかもしれない。
著者は「ポアンカレ以降も、科学者たちは閃くことで『三体問題』に対する新しい特殊解を見つけています」と述べているけれど、三体問題の安定解(の一部)の極めて美しい描写、表現に出会ったので、ここで紹介したい。
三体が描く軌跡は、つかず離れずの関係において見事に調和している。
人間も同じではないだろうか。時に重なり合いながら、時に離れながら、動き続けながら調和、落ち着く関係を見い出し続けている。
逆に、調和の破壊としての支配や服従は、他の存在を従属、隷属させることなのだとしたら、それは三体以上の問題(関係性)を、二体問題、あるいは一体問題へと縮退、変容させることと言えるのかもしれない。
調和的な軌跡、運動を眺めていると、じつにみずみずしく生命的であるし、ゆえに生命は「ゆらぎ」に支えられている。そう思えてならない。
同一直線上にない(一次独立な)三点があれば、平面を支えることができるように、調和や安定の源は「三以上」の複数性にあると思うと、「多様性」という概念の奥行きが一層感じられてくる。
ああ…三体問題の安定解の軌跡を眺めていると、「和して同ぜず」とはまさにこのことなんだなと直感した。たえまなく動いている、ゆらいでいる意味では不安定なのだけれど、その不安定性の中に「安定」と「調和」の息吹が聴こえる。
「多体問題」と「ゆらぎ」が響き合う。
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