Makoto Shirasu

「毎日をていねいに暮らす」を大切に。 興味の中心は「生命・自然・調和」。哲学、ア…

Makoto Shirasu

「毎日をていねいに暮らす」を大切に。 興味の中心は「生命・自然・調和」。哲学、アート、デザイン、サイエンス、音楽、ヨガなど幅広く。 総合商社 → AIエンジニア → 事業統括・PM・事業開発・サービスデザイン@startup → 自由に。

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最近の記事

身体感覚と共感〜落ちる感覚と恐怖のつながりを通じて〜

高い場所に登るのが怖い。ジェットコースターやフリーフォールなどの乗り物に乗ることが怖い。高い場所に感じる恐怖の源泉は何なのでしょうか? その要因の一つは、高いところから「落ちる」という身体感覚。普段は地に足がついて身体が支えられていることによる安心感があるわけですが、落下している時間は支えが外れて自分の身体をコントロールできなくなります。 その「フワッ…」とした身体感覚が記憶され、高い場所に登ることが引き金となって内側から落ちている感覚が蘇ってくる。そのような蘇る身体感覚

    • 身体化するということ〜身体化された認知の理論における「思考」の位置付け〜

      ヨガに取り組んだり、楽器を演奏する中で、色々な考えが浮かんでは消え、浮かんでは星と星の間に線が見つかり星座となるように、つながってゆく。 「身体を動かすこと」を通じて何かと何かがつながったり、ぼんやりとしていたことが輪郭を持ち始めたことがある、という経験があるのは私だけではないと思います。 そこで、しばらくの間このような個人的な感覚を深掘りしてみたいと思い、一つの手掛かりとして「身体化された認知」の理論を参照しながら、身体的体験の意味を探ります。 身体化された認知の理論

      • 中立な観察者〜感情と理性の相互作用、ダイナミクス〜

        「なんであんなことを言ってしまったんだろうか」 「なんであんなことを思ってしまったんだろうか」 それは他者に対してかもしれませんし、あるいは自分に対してかもしれません。「相手のことを思って」という枕詞がつくとき、良くも悪くもその言葉は自分本位、利己的な言葉になっているかもしれない。 ですが、できることならば「相手のことを思って」のことが実際に相手のためになってくれたら…という気持ちは(今すぐでなくともよいので)どこかで実ってほしい。 『道徳感情論』『国富論』で知られる有

        • 万物の流れとダイナミクス〜ヨガと音楽の重なり合いを通じて〜

          「ヨガと音楽は重なっている。つなぐものは"ダイナミクス"(Dynamics)」 今日もいつものようにヨガに取り組んでいると、それはそれは青天の霹靂のように、突如としてこの言葉が降りてきて自分の心の内側が晴れ渡ってゆくような感覚を覚えました。今日のこの感動を未来の自分に託すような気持ちで徒然なるままに綴ってみようと思います。 ヨガは身体を動かして様々なポーズを取ります。両足で身体を支えるように身体の対称性を保つ形もあれば、片足立ちでバランスをとるように非対称な形を取るポーズ

        身体感覚と共感〜落ちる感覚と恐怖のつながりを通じて〜

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          環境、行為、そして意味〜行為の意味は環境から引き出されるということ〜

          「私たちは環境から様々な"支え"を受け取り、そこに意味を見出している」 アメリカの知覚心理学者ジェームズ・J・ギブソンが提唱した「アフォーダンス(affordance)」という概念。これは「与える、提供する」などを意味するアフォードから派生した造語ですが、環境が私たちに提供している「行為の資源」です。 私たちは環境に内在している性質を見出し、その性質を適切に利用しながら様々な行動・行為を実現している。逆に言えば、行動(および、その意味)を観察することで環境が持つ有用な(活

          環境、行為、そして意味〜行為の意味は環境から引き出されるということ〜

          こころを"環境と行為の関わりのプロセス"と捉える〜生きものの行為を考えるために、生きもの"だけ"から発想しないということ〜

          「こころは環境と行為の関わりのプロセスである」 アメリカの知覚心理学者ジェームズ・J・ギブソンが提唱した「アフォーダンス」という概念に関する書籍『アフォーダンス入門 知性はどこに生まれるか』で記されている言葉です。 Wikipediaを参照すると、アフォーダンスは「環境が動物(有機体)に対して与える意味や価値」と述べられています。関わりとは「時間的な変化を伴う相互作用」であり、その中で個々の動物にとっての固有の価値や意味が引き出されていく。 私が時折考える問いの一つに「

          こころを"環境と行為の関わりのプロセス"と捉える〜生きものの行為を考えるために、生きもの"だけ"から発想しないということ〜

          "紙の向こう側"にいる人の存在と縁起〜ハンドシュレッダーによる裁断を通して〜

          「サクッ…サクッ…サクッ…」 毎日のようにポストに投函されるチラシや広告。それらの大半は残念ながら手に取っても縁がありません。 「これは裁断してしまっていいのかな…」 ご縁のなかった紙類の一つひとつをハンドシュレッダーで裁断していると、作成主に申し訳ない気持ちが湧きあがる紙もあれば、そうでない紙もあります。 今の時代、電動シュレッダーにかければ紙を大量に短時間で簡単に裁断できますが、あえてハンドシュレッダーを使うと、時間はかかるものの裁断時の振動が身体感覚として蓄積さ

          "紙の向こう側"にいる人の存在と縁起〜ハンドシュレッダーによる裁断を通して〜

          レジリエンスの源泉〜ユーモアと意味付け〜

          復元力などを意味する「レジリエンス」という概念の定義は様々ありますが、書籍『レジリエンスとは何か』の中でレジリエンスの構成要素が紹介されていました。洞察、独立性、関係性、イニシアティブ、創造性、ユーモア、モラルの7つです。 ここ最近、季節の変わり目で気温の変化も激しく体調を崩したり、長年使っていたパソコンが突如不調になりバッテリー交換などで修理に出さざるを得なくなったり…といったことが同時期に重なりました。 ふと「神様、試練を与えすぎです…!」と無意識に口をついて一言。「

          レジリエンスの源泉〜ユーモアと意味付け〜

          こころのレジリエンスとは何だろう?〜心が"折れる"という表現から考える〜

          書籍『レジリエンスとは何か』で「人のこころのレジリエンスとは何か」という問いかけがなされています。 「悩みが尽きない」「心が折れてしまいそう」のような言葉が浮かんでくる、あるいは口をついて出てくることもあるかもしれません。 ふと「心が折れる」という表現は、心が「折れる」ような性質を持っているという前提が置かれていることに気づきました。もし心が「折れる」ものであるならば、心は「固い」「曲がらない」ものであるはず。ですが、心は硬いのでしょうか? 新しい環境に飛び込んだ時、人

          こころのレジリエンスとは何だろう?〜心が"折れる"という表現から考える〜

          複雑な物事の振る舞いは劇的に変化する〜閾値と非線形性〜

          「ある日、気づけば超えてはいけない一線を超えていた…」という経験はないでしょうか。 書籍『レジリエンスとは何か』で、複雑なシステムの代表例である生態系の振る舞い(挙動)が、ある閾値(境界)を超えると劇的に変わると紹介されています。 閾値を超えるまでは、システムの振る舞いの変化は「緩やか」であるため、変化に気付きにくいけれど、閾値を超えると振る舞いが「劇的に」変化するということは、つまり変化が直線的ではない(非線形)であることを意味します。 自分事として、たとえば「睡眠不

          複雑な物事の振る舞いは劇的に変化する〜閾値と非線形性〜

          無関心がレジリエンスを弱める〜フィードバックの重要性〜

          「復元力」を意味するレジリエンスという概念を構成する要素の一つとして 「密接なフィードバック」が挙げられています。 フィードバックとは、自らを取り巻く環境に働きかけ、環境から反応・応答を受け取ること。つまり、フィードバックは円環的構造(フィードバック・サイクル)を取ります。 外部からの撹乱がもたらされた際に回復・再生してゆくためには、自らの力だけでなく周囲とのコミュニケーション・協調が必要になります。そのためには、自らの現在の状態を適切に対外発信し「協力を得られるか」を確

          無関心がレジリエンスを弱める〜フィードバックの重要性〜

          レジリエンスとモジュール性〜互いに独立しながら協調するということ〜

          「復元力」を意味するレジリエンスという概念を構成する要素の一つに、「モジュール性(modularity)」があります。 ソフトウェアやハードウェアの開発、組織や製品の設計など、様々な分野などで応用されており、「大きな全体を独立した部分(モジュール)に分割し、それらの部品を組み合わせることで全体を構築する原理や特性」として定義されています。 モジュールという独立した小さな単位が集まって全体が出来上がっているとうことは、つまりモジュールの間に依存関係がない(あるいは希薄)とい

          レジリエンスとモジュール性〜互いに独立しながら協調するということ〜

          つながりの多様性、他力、レジリエンス〜色々なものに頼ることができるということ〜

          「復元力」を意味する言葉、レジリエンス。ゆらぎや撹乱が起きたときに、しなやかに受け流しながら自己を保つ力強さであり、再生や回復とも重なる概念です。 後ほど言葉を引くように、レジリエンスの要素の一つに「多様性」があります。ここでの多様性とは「多様なつながり」であり、「色々な物に頼ることができる」ことを意味します。 つながりが複数ある場合、いずれかが途絶えてしまったとしても致命傷には至らない、あるいは生活が大きく毀損することはない。むしろ、つながりの一部を自ら切り離して、新し

          つながりの多様性、他力、レジリエンス〜色々なものに頼ることができるということ〜

          回復、再生、そしてレジリエンス。

          「再生する」とは一体どういうことだろう。ふと、そのようなことを思いました。 季節の変わり目もあり、著しく体調を崩していた状況が少しずつ快方に向かっている実感のある今日この頃。この状況は「体調が回復している」と言えるけれど「再生している」とは言い難い。「回復と再生の違いは何だろう」という問いも生まれてきます。 「再生」という言葉を辞書で引いてみると以下の定義が記されていました。 これらの定義に通底している精神は「ゼロから始まる」ということのように思います。途中からではなく

          回復、再生、そしてレジリエンス。

          人は感覚で見ている??

          「人は眼で何かを見るわけではなく、感覚で見ている」 これは哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの言葉ですが、「感覚で見る」とは一体どういうことなのでしょうか。 たとえば、誰かと会話している場面を想像してみます。 相手との会話が始まると、普段の会話と何かが違う。会話の内容、表情、声のトーン。相手から受け取った物事を咀嚼し、相手の気持ちになってみる、想像する。「今日は気分が良くないのかもしれない」あるいは「何か悲しいことや辛いことがあったのかもしれない」と察しながら話を

          人は感覚で見ている??

          対立から循環へ〜ケルト文化における生命循環の思想〜

          世界各地にはその土地に根付いた音楽が存在しています。風習や文化と一つになって世代を超えて受け継がれた音楽には固有の香り、息づかいがあり、たとえその土地で生まれ育ったことがなくとも、その人の心を揺さぶる力があるように思います。 その中で「ケルト音楽」は私が心惹かれる音楽の一つです。時に風がそよぐように爽やかで。時に穏やかで牧歌的で。時に躍動的で生命的で。 あとで言葉を引くように、ケルトの伝統では「生と死、あの世とこの世、光と闇を二項対立ではなく、生命のサーキュレーション(循

          対立から循環へ〜ケルト文化における生命循環の思想〜