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クリスチャンのしるし?

クリスチャンであることの目に見える「しるし」って、なんだろうね?

十字架のネックレスをつけること?

イエスは、お互いに愛し合うことが、その「しるし」だ、と言っている。

今日の聖書の言葉。

互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。
ヨハネによる福音書 13:35 新共同訳

お互いが、お互いを、愛し合う。。。

それが、イエスの弟子であることの目に見える「しるし」だという。。。

愛について、聖書は、こう定義している *。

 ● 愛は忍耐強い。
 ● 愛は情け深い。
 ● 愛はねたまない。
 ● 愛は自慢しない。
 ● 愛は高ぶらない。
 ● 愛は礼を失わない。
 ● 愛は自分の利益を求めない。
 ● 愛はいらだたない。
 ● 愛は恨みを抱かない。
 ● 愛は不義を喜ばない。
 ● 愛は真実を喜ぶ。
 ● 愛はすべてを忍び。。。
 ● 愛はすべてを信じ。。。
 ● 愛はすべてを望み。。。
 ● 愛はすべてに耐える。

。。。なかなかハードルが高い定義だよね。

これを、まんま、自分が誰かに出来るのか、というと、自信がない。。。

自分の場合、相手に対する忍耐が切れた時は、それが無意識に身体に表出される。足に出た場合は、貧乏ゆすりしたり。指に出た場合は、机をモールス信号みたいに早打ちしたり。

なので、愛することの覚悟と努力を、あきらめずに続けるしかない。

全集中の呼吸で、指先にも、足先にも、愛の波動を送り込む。。。貧乏ゆすりよ、去れーッ、指よ、止まれーッ。。。

まあ、そんなことやっても、愛が増量するわけでは、ぜんぜんないけど。

これは、自力では絶対に出来ないことだとわかっているので、だから、やっぱり、祈って、イエスの助けを求めるほか、ない。

お互いに愛し合うためには、愛するための努力を続けるしかない。。。愛するための努力をするには、祈り続けるしかない。

結論。クリスチャンの目に見えるしるしとは「祈り続ける」ひとたちだ、ということ、かもしれない。

たとえみんなが愛することに倦み疲れたり、愛することに絶望したりしたとしても、それでも、また、あたらしく、あらためて、何度でも、愛し始めるために、祈ろう。祈り続けよう。

アシジの聖フランシスコの「平和の祈り」

主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。
憎しみのある所に、愛を置かせてください。
侮辱のある所に、許しを置かせてください。
分裂のある所に、和合を置かせてください。
誤りのある所に、真実を置かせてください。
疑いのある所に、信頼を置かせてください。
絶望のある所に、希望を置かせてください。
闇のある所に、あなたの光を置かせてください。
悲しみのある所に、喜びを置かせてください。
主よ、慰められるよりも慰め、理解されるより理解し、愛されるよりも愛することを求めさせてください。
なぜならば、与えることで人は受け取り、忘れられることで人は見出し、許すことで人は許され、死ぬことで人は永遠の命に復活するからです。

註)
*  Cf. コリント一 13:4-7


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