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もう少しだけ書き忘れたことがある〜映画『PERFECT DAYS』

昨日のnoteでは映画を観て思ったことをダラダラと書き殴ってしまったのだけど、


「公開」ボタンを押してからも、あれも書いてない、これも言い忘れた、そんなことが次から次へと出てくる。

田中泯さん演じたホームレスは存在したのか?
このホームレスは平山が掃除をする公共トイレの木のところでいつも踊っているのだが、最初に出てきた時はたしか木に抱きつくような姿勢だったんじゃないだろうか?
そして、平山が目を凝らして見ていると踊りだしはじめた。
彼は平山だけが見えている幻影、木の妖精なんだろう。
そして最後の方のシーンで、いつも木の根元で踊っていた彼が渋谷駅前の交差点で踊っていた。
その姿を車内から目にした平山の驚いた顔。
あの意味をずっと考えている。

※投稿前に舞台挨拶での田中泯さんの挨拶で、
「自分の役は平山にしか見えていない」
と仰っていて、やっぱりそうだったのかと思いました。

石川さゆりさんはやっぱり歌が上手いなぁ。
客の1人で出ていたあがた森魚がギターで伴奏を弾き
「ママ、唄ってよ」で始まった朝日のあたる家の邦訳が素晴らしかったですね。

平山は過去の自分の完全に縁を切るために選んだ真反対の生き方なのだろうが、
彼はガラケーは持っているが(会社から連絡用に支給)、
ネットは見ないし、
家にもテレビもラジオもない
(ラジカセはあるが、ラジオは聴いてない様子)、
新聞も取ってないし、
銭湯でも夕餉をとる食堂でもそれらの媒体には手を出していない。
(銭湯や食堂のテレビで見るのは大相撲やプロ野球くらい)

とにかく世の中の動き、社会や政治経済とは全く隔絶されている。

それはつまり政治不信や社会への無用な憤りという感情からも逃れられているということかもしれない。

それでいいのか?というようにも思うが、それも幸せなのかもと少し思った。
身の回りの半径1メートル程度の物事だけで、自分自身で見たもの触ったものだけで世の中を判断する。
食べてさえいければなんと幸せなんだろう。
そう思った。

現代風に言えば持たない生活、ミニマルな生活ということになるんだろうが、それとは少し違うようにと思う。



きっとここで書いていることも、時間が経つとまた違う見方、考え方になるんだろうな。
スクリーンに描いた事柄以外に大きな余白がある作品がこれほど奥深い味わいのある映画になるんだと改めて考えさせてくれました。

特に大した事件も起こらない日常を淡々と描き、そんな普通の暮らしが愛おしいということを教えてくれた佳作としては、ジム・ジャームッシュの『パターソン』がある。
あの映画もとても好きな一本なのだけど、あちらは少し作り物感があったので、やはり違うなぁと。
例えばパターソンの嫁のキャラクターとか。
アメリカと日本の舞台の違いもあるのだろうか。

そして、昨夜からこの映画のレビューや関係者のインタビューなどを見聞きしていて思ったこともある。
それは、僕がこの映画を観て心に響いたことを真反対からも見れる映画だということ。
例えば、現代の日本社会の行き詰まった資本主義を代表する電通がこの映画の制作に大きく関与していること。
柳井さんの息子さんがプロジェクトを先導していて、それはつまりユニクロの資本も(おそらく)かなり入っているであろうこと。
そうした、ザ資本主義のような企業達が

「清貧っていいよね。
嫌なことからも目を背けて、自分の好きなモノだけに囲まれて慎ましく暮らすのっていいでしょ。
だから社会の不満なんて考えないでそっと暮らしていけばいいんだよ」

そういうメッセージをこの映画が前面に出しているとしたら胡散臭いったらありゃしない。
幸いにもそういう映画制作に関する前情報を一切知らないで観たおかげで、冒頭から前半までの平山の生活に「NO」を言わないで済んだ訳だが、
そうした背景状況をもって
「トンデモナイ噴飯モノ映画だ」
と批判しているレビューもあるのは理解出来る。
なるほど、そういう見方もあるわな、と。

少なくとも監督のヴィム・ヴェンダースや役所広司さんをはじめ出演した役者の皆さんはこの平山の生き方を、それが望んだものか止むを得ずなのかは別にして、純粋に尊いものとして作品にしたんだとは思う。
そこに彼らの理論で何らかの餌または毒まんじゅうを仕込んだ企業たちがバックで金を出したことも事実なんだろう。
「芸術 対 資本」
だからこそ、むしろこの映画は映画として重層的になったのかもしれないかもよ。

〈了〉

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