歴史を彩る無名戦士に花束を③細川忠隆
子は親を選べないーー。いまから400年前、ひとりの青年武将が父との関係になやみ、苦しんだあげく、ある決断をくだした。かれの葛藤がきょうのテーマだ。振れ幅の激しいかれの人生には、読み明かしたあと、一晩眠れぬ短編小説のような磁力がある。
戦国末期に生まれた御曹司
きょうの主人公の名は細川忠隆(ほそかわ・ただたか)という。1580年、山城国(現在の京都府南部)で生まれた。ちょうど戦国時代の末期、織田信長(おだ・のぶなが)が頭一つ抜け出し、天下人の地位をかためつつあったころだ。
忠隆の父は細川忠興(ほそかわ・ただおき)。17歳のとき従軍した大和国(現在の奈良県)の片岡城攻めでは、頭部に投石を受けながらも、槍をふるって敵に突進した逸話をもつ。対立関係にあった妹婿を自らの手で斬殺するなど、戦国の武者らしい、苛烈な人物だった。
母は名高い。明智光秀(あけち・みつひで)の三女で、キリシタンとして知られる玉(たま、のちの細川ガラシャ)だ。抜群の聡明さと人目をはばかる美しさを持ちあわせた女性で、外国人宣教師が「花のように麗しい」と手紙に書くほどだった。
ちなみに、細川氏といえば足利将軍家と同族の名門であり、明智氏も美濃の名族・土岐氏の流れをくむ。両家の血を受け継ぐ忠隆は、まさに生粋の御曹司といえるだろう。
激しい父
忠隆におおきな影響を与えた父・忠興の人柄をみておこう。かれを特徴づけるキーワードは「妻への激しい愛」だ。
こんなエピソードがある。
あるとき、細川家に仕える1人の庭師が軒影にかくれて、美しい玉の様子を盗み見していた。これを嫉妬深い忠興が見逃さなかった。すぐさま庭師の首をはね、まるであてつけのように、玉の目の前に生首をすえおいた。
多分に誇張されているとはいえ、忠興の偏執的な気性をあらわす逸話といえるだろう。
玉の父である明智光秀が突如として主君・織田信長を殺害した「本能寺の変」をめぐる対応にも、忠興の妻への想いがあらわれている。
本能寺の変後、忠興はさんざん悩んだあげく、舅の光秀ではなく、光秀の政敵である豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし)に加担した。
本来ならその時点で、光秀の息女である妻の玉とは離縁するのが筋だが、忠興にはそれができず、苦肉の策として、玉をそっと山奥に隠した。家臣には反対されたが、忠興は男泣きしてなんとか「わがまま」を認めさせたという。
事実、2年後に玉は元の立場にもどっている。
千世と結婚
忠隆も妻想いだった。
結婚したのは17歳の時。相手は前田利家(まえだ・としいえ)の七女の千世(ちよ)だった。両親とおなじく政略結婚だが、仲睦まじい夫婦だったという。
細川家の男には妻を深く愛するアイデンティティーがあるのかもしれない。
忠隆の祖父、藤孝(ふじたか)も側室をおかず、妻・麝香(じゃこう)のみを愛した。忠興も妻・玉への思いは並みでなかった。忠隆の千世に対するあたたかなまなざしも、この系譜に連なるだろう。
だが、平和は長続きしなかった。
天下分け目の関ケ原の戦いが、細川家の人々を翻弄することになる。
駆け引き
当時の政治状況を説明しよう。
1598年に豊臣秀吉が亡くなったあと、誰もが認める実力第一人者は徳川家康(とくがわ・いえやす)だった。秀吉の忠臣だった石田三成(いしだ・みつなり)は家康の突出を警戒し、各地の大名とともに「反家康連合」を築いた。「家康派VS反家康派」というのが、関ケ原の戦いの基本的な構図だ。
家康と昵懇(じっこん)だった忠興は、家康とともに各地を転戦した。もちろん、跡取り息子である忠隆も父に従った。
これに対し、「なんとか忠興をこちらの仲間に引き入れられないだろうか」と三成は知恵を絞った。
丹後(現在の京都府北部)の国主だった忠興は、家柄、戦歴からみて、武将連中のなかで抜きんでた存在だった。実力者である忠興を自陣営に鞍替えさせることができれば、いっきに戦局は有利になる。
「玉を人質にとれば、妻想いのあいつのことだ、ころっと手のひらを返すだろう」
三成はそう考えたのではないか。玉が住む大阪・玉造の細川屋敷に軍勢を差し向け、武力でもって玉を人質にとることにした。
細川家の関ケ原
これに対し、玉のとった行動は凄絶(せいぜつ)だった。
屋敷に火をかけたうえで、長刀をもつ家臣に自身の胸を一突きさせ、紅蓮の炎のなかに消えていったのである。キリシタンである玉は宗教上の理由で自殺が許されなかった。
37歳だった。
玉の父、明智光秀は謀反をおこした末に殺された。母や姉弟たちも、光秀亡き後自ら命を絶った。玉にとって「死」は遠い存在ではなかったのだろう。
忠興の悲しみ
関ケ原の戦いは徳川方が勝利した。忠興、忠隆父子も戦場で活躍した。石田三成は斬首された。
だが、忠興はみじめだった。合戦後、焼け落ちた大阪の屋敷跡に立ち、一晩、泣き明かしたといわれている。
あれほど愛していた妻だ。忠興はなにを思ったか。
なぜなんだ、なぜ玉なんだ、なぜ他の者でなかったんだ。
元来、激しく突き動かされやすい性格である。思い込んだら止まらない。怒りの矛先は身内にむかった。
忠隆の妻、千世だ。
窮地に立つ千世
時計の針を少しもどす。
三成の軍勢がさしせまったとき、夫の留守を預かる玉は、屋敷の人間をできるだけ避難させた。千世もその1人だった。死を覚悟した玉の冷静な行動のおかげで千世は、実姉の嫁ぎ先である宇喜多家の屋敷に身を隠すことができ、間一髪、難を逃れた。
忠興は、そんな千世を激しく攻撃したのだ。
忠隆にむかって「千世は玉と異なり、恥ずべき行動をとった。離縁せよ」とせまった。
忠隆の煩悶
忠隆は苦しんだ。
父の感情はもはや制御できぬほどに高まっている。身近でみてきた忠隆にはよくわかっていた。だからといって、無理難題を受け入れるわけにもいかない。千世は父が言うような恥ずべき女では決してない。父に屈する形で千世を手放して俺は生きていけるのか。俺の人生はいったいなんなんだ。
忠隆の脳裏には、炎に包まれていく覚悟を決めた母の横顔が浮かんだだろう。玉は忠興の妻であるとともに、なにより忠隆の母だった。凛然(りんぜん)とした生き方を貫いた母だった。
忠隆は決めた。
忠興の要求を突っぱねたのだ。
忠興がどのような反応を示すかは百も承知だっただろう。覚悟のうえだった。
筆者はここに、忠隆の個性をみる。背骨に一本、動かしがたい信念が埋め込まれており、それをねじまげてまで生きることをよしとしない。不器用なのだが、ある種の清冽(せいれつ)さ、潔よさを感じさせる生き方でもある。
親子断絶
忠興は激怒した。
怒りの感情はとどまることがなかった。
忠隆を勘当(かんどう)した。もはや親子でない、と広く宣言したのだ。忠隆は名門・細川家の跡継ぎの座を追われ、一介の人間になった。
親子のもつれが行きつくところまで行った末のできごとだった。
その後の忠隆
忠隆の後人生についてはここでは多くはふれない。京都で文化人として暮らし、千世との間には4人の子宝に恵まれたという。
反目しあっていた父子が和解したのは、勘当から38年後。忠興は79歳、忠隆は62歳になっていた。
我が人生を左右した老父を前に、忠隆はなにを思っただろうか。「一緒に住もう」という忠興の提案に、忠隆は静かに首を横にふったといわれている。
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