「赤の監視とnoteを書くことの意義」

noteは出産である。出産と言えば著者が統合失調症なら統合失調症を産むということになるのであろう。私の解説をすると、祖父が私に呪いをかけ、私は統合失調症になった。その様態はさまざまであるが、回を追っていくと、赤の監視に行き着くことが分かった。統計学やテンソルを学び、赤の監視が最適解であるから、赤の監視に参加しようと試みた。統計と言えば、大数の法則である。何回も試行を繰り返すと、徐々に成功率が固定されていく。確率試行の醍醐味である。テンソルが教えてくれたのは、カオスは誤魔化しであり、テンソルが双対空間を与え、続いて、ベクトル場に行き着くというものである。祖父の説教はスポーツ人間学であった。スポーツが人間の能力であり、あたかもそれが限界かのように決めつけてしまっていた。スポーツ大国日本にはなり得ないのではないか。諸外国はスポーツが盛んでつけいる余地などいくらでもある、柱がいくつかないと成り立たない説教である。赤の監視と言った時には教員に行き着く。教員が統計学やテンソルを学んでいないのはこの際よしとして良い。なぜならば教員が中庸の解であり、スポーツと学問両方に振っているからである。統計学とテンソル両方学んでいる人も数少ない、これも中庸の解に行き着く。祖父の失敗は中庸の解が頭になかったことである。そして、日本の中で権力を掌握できてしまっている。本来、学閥も中庸の解の一つであるのに。スポーツ一強独裁ではなく、中庸の解を意識して、我々は国家を運営していかなければならない。

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