激動の時代のキリシタン、高山右近と金沢
金沢の異人館、ウィン館とキリスト教系の北陸学院を見てきました。
それは明治時代の話でしたが、明治以前に金沢にキリスト教が入ってきたことがなかったわけではありません。
江戸時代前から、キリシタンの高山右近もいて、キリスト教は金沢へも到達していました。
右近は、マザー・テレサと同じキリスト教の福者に列せられています。
キリシタン大名、高山右近が加賀藩へ来るまで
北陸に最初に入ってきたキリシタンが、高山右近です。
その頃、日本でキリスト教といえば、カトリックでした。右近もカトリックです。
16世紀の宗教改革によるプロテスタントの台頭に対抗するため、カトリックではイエズス会が設立されました。海外への布教の強化で、日本へも宣教師ザビエルが来ています。
ザビエルは、布教のため都の天皇や将軍に謁見しようとしますが叶わず、ようやく10年後に宣教師ヴィレラが謁見したのち、キリスト教の布教が認められます。
でも、一筋縄ではいかず、仏僧から宣教師追放の依頼を受けた大和国(奈良)の大名、松永久秀が「イエズス会の見定め」を行います。
まるで伝説のようですが、そこで修道士の説教により、逆に家臣と儒学者がその教えに納得してキリシタンになったといいます。
高山右近の父、高山飛騨守も感銘を受け、洗礼を受け、右近も12才でキリシタンとなりました。
室町、安土桃山、江戸と激動の時代に、キリシタンに対する政策もいろいろと変わり、右近も激動の人生を送ることになります。
右近、加賀藩へ
加賀藩へは、1588年に客将として招かれました。前年の秀吉によるバテレン追放令で、播磨明石から追われていたところ、加賀藩祖前田利家より声がかかってのことです。
利家は、千利休から茶の湯を学んでいます。高山右近も利休の門下で、利休の高弟7人(利休七哲)の1人です。利家とも面識がありました。
先に見た像の左には、南坊石という石があります。右近の家を取り壊したときに、搬出された地元の赤戸室石だと伝えられています。
茶人としての号、「南坊」から名付けられたという説が有力です。
利家は以前から、右近を、「武勇のほか、茶の湯、連歌、俳諧にも達せし人」と高く評価していたため、右近を加賀藩へ招びました。
右近と建築
右近は、建築の名手としても知られ、加賀藩へ来てからも多くの建築の携わっています。
1599年、利家が亡くなり、息子の利長、第2代加賀藩主が家康から謀反で疑われたときには、金沢城のお堀(内惣構・うちそうがまえ)をわずか半年ほどの工期で完成させています。
1601年には、金沢に南蛮寺(教会堂)を建設します。兼六園のすぐそばの紺屋坂付近です。本当に金沢城に近いところにあったことから、前田家の信頼を得ていたことが分かります。
今は、南蛮寺の跡はなく、お土産屋さんが並んでいます。
右近の最初の屋敷も、お城のすぐそば、今の21世紀美術館から石川県立美術館の後ろまでの場所にありました。
石垣は、江戸時代の加賀藩の年寄(家老)本多家の屋敷のもので、右近の屋敷の形跡はありません。
1602年の金沢城天守の落雷による消失のあとつくられた3階櫓も、右近が指揮したと言われています。
1609年、富山城が火災で焼失した際には、高岡城も設計しました。
高岡城自体は残っていませんが、お堀が全国的にも珍しくきれいに残っていて、お堀の配置がいいと日本の名城100に選ばれています。
右近には、高槻城、天守堂、京の南蛮寺、安土のセミナリヨ、船上城と多くの建築実績があったので、技術を駆使して加賀藩でもこのように多くの建築に寄与してきました。
400年以上経た今、残っているものはお堀だけですが、金沢城にも右近の残した建築的痕跡は見られます。
例えば、二ノ丸の菱櫓は復元されたものですが、京の南蛮寺に似ていると話題になりました。
3階建てであること、建物の隅の黒い柱、屋根の形がそうです。
黒い柱はほかの建物でも見られる金沢城の特徴です。
金沢城のグランドデザインに右近が影響を与えたとも見ることができます。
加賀藩でのキリスト教と右近
右近は、教会も自費で建てて、キリスト教を広める活動にも熱心でした。
1593年には、神父を加賀藩へ迎え、能登へ宣教に行っています。そこでも、七尾市の小丸山城跡公園あたりに教会を作りました。
そのかいあってか、1604年にはキリスト教徒が約1500人になっていました。
同じ主神信仰とはいえ、浄土真宗の強い風土で、聞いたこともないキリスト教を15年ほどでこれだけ増やすというのはすごいのではと思います。
右近を頼って、加賀藩へきたキリシタン武士やキリシタンとなった加賀藩士が住んでいた伴天連(ばてれん)屋敷エリアもありました。
甚右衛門坂と呼ばれる金沢城に入る坂の下です。
本当にお城の入口なので、ここからも右近だけでなくキリシタンも前田家に信頼されていたと感じられます。
1614年、幕府による禁教令により、加賀藩前田家に右近を京へ送るようにと命が下されます。
加賀藩も逆らえず、右近は、京から長崎、そしてマニラへ追放となり、翌年、病のため亡くなります。
禁教令の前年1613年には、幕府の直轄地への禁教令が出されていました。
全国的になることが予想されており、加賀藩のキリシタンは、用意されていた七尾の本行寺で保護されて、表向き転向したということで、信仰を守り続けていきました。
禁教令のあと、加賀藩としても、幕府が禁止しているキリスト教が藩内で残っているのはまずいので、踏み絵なども徹底しました。
でも、長崎の隠れキリシタンが残ってきたように、右近の残したキリスト教の精神が江戸時代の禁教を生き残って金沢のキリスト教の土壌となったと想像するとロマンを感じませんか?
高山右近が気になってきた方は、右近の像もあるカトリック金沢教会へ行ってみるのがおすすめです。
兼六園、金沢21世紀美術館の近くで街中にあります。
教会の中には、高山右近の詳しい紹介がされていたり、聖遺物をおさめた顕示台が展示されていたりします。
教会だけれど、高山右近博物館と言っても過言ではありません。
参考
「北陸のキリスト教」梅染信夫
「キリシタン大名高山右近とその時代」川村信三
「加賀百万石異聞高山右近」北國新聞社
「よみがえる金沢城1」石川県教育委員会
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