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2021/9/22 ハードワーク後のご褒美と、「世界」について考える習慣の話

ここ数日、ひさびさに根を詰めて仕事をした。先々週くらいまでは、朝起きて1時間、お昼休み1時間、夜寝るまで2時間くらいは読書または書き物をする生活だったのが、全て仕事の時間に充てていた。ようやく終わりがみえてきて、来週はもう少しのんびりできるかも。

ハードワークに心が折れたことがある。一番最初に勤めた会社で世論調査をした後のことだ。総勢1000人を動かす仕事で、私は事務局メンバーたった3人のうちのひとりだった。調査期間中は8時から23時までがシフトで、その2週間前後も似たような労働時間。ただその仕事自体は始まりと終わりが明確で結果も出たから、とてもポジティブな思い出。問題はその後。

ご褒美に旅行でも、と思ってたら、休む間もなしに大規模なセンター立ち上げにアサインされた。世論調査後に1日も休まずに、また何百人のエージェントの採用と研修、効率やら何やらの管理をする。それを想像したら、心底うんざりした。それで会社をやめることにした。
1週間でも休みをとっていたら、たとえばちょっといいホテルでのんびりでもしていたら、そんな決断はしなかったように思う。

それ以来、ハードワークの後はご褒美、が、私の習慣になっている。今の仕事がひと段落したら、ヴァンクリのブレスレットを買おうというのが今の私のモチベーション。

習慣といえば、最近読んだ本をきっかけに「世界」について考えるようになった。たとえば「親ガチャ」なんて言葉を聞いた時に、本当にこの世界は「親ガチャ」で人生の大部分が決まるのか、なんてそんな風に。

たとえばうちの兄弟は同じ親から生まれた割にずいぶんとバラバラな人生を歩んでいる。ある程度決まる部分はあったとして、それは決して全てではなく、個人の介在する余地があるのでは、というのが「親ガチャ」について私が思うこと。じゃあその余地で自分は何をするのか、なんて考えると、ずいぶんと視点が切り替わる。

コロナ禍をどう過ごすか、も、まず「コロナとは何か」を先に考えるといいように思う。天災なのか?事故に近いのか?なんてことををよく考えて、その上でじゃあ自分はどう行動するか、の順番で考える。
今の私にとってコロナは確率の高い交通事故のようなもの。事故に巻き込まれることもあるし、自分の不注意で事故に遭うこともある。それを恐れて車に乗らないのは違うんじゃないか、が、今の私の行動の指針になっているように思う。

そんな「世界」について考える習慣、私はずいぶん遠回りして手に入れたように思うのだけど、先日読んだこの本には「世界」について考えるキッカケをくれた哲学の有用さが言語化されていた。

プロセスとは、その哲学者がどのようにして考え、最終的な結論に至ったかという思考のプロセスや問題の立て方を意味しています。一方で、アウトプットとは、その哲学者が論考の末に最終的に提案した回答や主張を意味します。
  この枠組みで考えてみれば、古代ギリシアの哲学者たちが至った結論である「世界は四つの元素から成り立っている」という指摘は、アウトプットということになるわけですが、ではこのアウトプットから現在の私たちが何かを学べるかというと、もちろん何もありません。せいぜい、頭の良かった古代ギリシアの哲学者たちも、こんな世迷いごとをほざいていたんだな、というくらいの学びしかないでしょう。
  しかしでは一方で、彼らがどのようにして世界を観察し、考えたかというプロセスについては、その限りではありません。そこには現在を生きる私たちにとっても大きな刺激となる、みずみずしい学びがあります。

山口周「武器になる哲学」

「世界」について考えることは楽しい。そして「世界」について考えた後に「自分」について考えると、「自分」の操縦をするような、そんな視点が手に入る。この客観的に「自己」を考えるということの有用性を、もう少しうまく言葉にできたらいいのだけど。


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