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ワシントン・アーヴィング「スケッチブック」(1820)/東京と地方の、そして19世紀の格差の話

この日は前から予約していた近くの民間学童の説明会へ。せっかちなのでいつか必要になるなら早めに知りたい。そういえば、中学受験で人気の塾、SAPIXにも子が0歳の時に見学に行ったのだった。

今回行った学童は、私が知る限り、そこまでラグジュアリーな訳ではなく、設備も思っていたより普通、なのだけど、カリキュラムはとても充実しているようにみえ、こんな放課後が過ごせるならいいなあと、感嘆した。毎月、学習対象の国があって、その国にちなんだことをアクティビティとして1か月かけて学ぶ。それは何も歴史に偏らず、たとえば料理、ダンス、スポーツといった文化的なことが日替わりで、とにかくバラエティに富んでいた。

そして親として最高なのが小学校まで迎えに行ってくれ、帰りは家まで送ってくれることだ。今日見学した他にも、東京には色々な学童がある。今度みにいこうと思っているところは楽器やダンスの習い事が学童ででき、もちろん学校から学童、学童から家までの送迎つき。保育園に通わせるより、親は楽。

学童探しに熱中していてふと思い出したのが自分の子供時代のこと。教育熱心な家庭に育ち、兄弟3人全員がそれぞれ複数の習い事をさせてもらった。子どもの教育と引き換えに犠牲になったのは母の時間だった。母の午後は子どもたちの習い事の送り迎えですべて潰れた。もちろんそれが苦にならない人もいるんだろう、だけどうちの母は働きたいタイプだったから、子どもながらに気の毒に思った。子を持つことに長年ネガティブだったのは、そんな母の影響もきっとある。

私が楽しく子育てをできるのは東京にいることが大きい。臨機応変に預かってくれる認可外保育所に、親もそこそこリラックスして過ごせる子の習い事の環境、そして何より、子どもがいても自分の時間をとることに目くじらたてる人が圧倒的に少ない。東京と地方の格差だな、と思う。

ついこの間読んだ19世紀の作品、W.アーヴィングの「スケッチブック」では、地主の子に生まれたら地主になり、小作人の子に生まれたら小作人の子になるしかない、そんな世界が当たり前として描かれていた。

荘園や遊園地などが一般公開されることにより、貧民をして、自分の境遇を受け入れ納得させるだけではなく、もっと大きな意義をもたらした。それは彼らがその附近に居住する富裕層の人たちに対して怨磋の声をあげることもなく、お互いの親睦を深める憩いの場となったことである。貧民たちはその土地の領主と同様に、自由に新鮮な空気を存分に吸い込むことができるし、木陰の下で贅を尽くして憩うこともできるのだ。彼らには構内で目に入るすべての物品を自分の所有物とする権利はないにしても、同時にそれらに対して税を支払う義務もなければ、その整備に労力を費やすこともないのである。
W.アーヴィング「スケッチブック」

この箇所以外にも「貧しいのにこぎれいにしている」なんて、まるで家畜の毛並みがいい、そんな感じの記載が多数あり、この時代に貧民として生まれていたらとても嫌だな、という気持ち。
ただ実際は、「貧民」たちはあまり気にならなかったのかもしれない。人生とはそういうものだ、という達観の境地、またはSNSのない時代だったから、地主がいかに裕福に暮らしているかなんて知らなかったのかもしれないし、知ったところで、雲の上の人たち、と思い気にならなかったのかもしれない。

母も案外、そういうものだ、と自分の時間が送り迎えで相殺されることを達観していたのかもしれない。

・・・

が、私は断じて嫌だなと思う。19世紀で貧民のまま人生を終えるのも、母のように送り迎えで午後がつぶれてしまうのも。知りうる限りのいちばんいい生き方を常に模索していたい。

何度生まれ変わっても、格差の壁を乗り越えたい。小作人から地主に、地方から東京に出る道を必死で探して這い上がっていきたい、そんなことを思った夜だった。


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