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しっくりくる言葉が見つからないから。

「もやっとする」ってよく使うよね、と言われて。
そんな言われるほど言ってるかなぁ、というのと、そう言われるほどめずらしいかな、と思いつつ、なんで私はよく使うんだろうな、と考えた。

結構使っている自覚はある。日々日々使ってるくらいの気分でもある。
そのときどきでいろんな意味を含めて使っていると思う。

と書いたけど、いろんな意味を含めているのではないな、と思った。
「もやっとした」はただ感覚として、体感や感情として出てきたもので、その感覚部分はほぼ共通なように思う。感覚の大きさの差はあるけど。
何にたいして、どんなところが、っていう、もやっとした理由がいろいろなのだ。

「いらいらする」「わくわくする」みたいなのと同じじゃない?
そういう感覚を覚え、なんでそう感じたかはそのときによる。

「もやっとする」と言うときは、そのときの感覚を表すのに近い言葉はあるけど、それはなんか違うってときだと思う。

腑に落ちない、納得いかない、釈然としない、落ち着かない、気になる、違和感がある、ひっかかる感、ずれている感じ、とか。
近いけど、ちょっと違うから、その近い言葉を使うのには違和感があって言えない。
でもその違うのがないように説明しようとするには、言葉が見つからないか時間がかかる。
「こういう感じ?」って聞かれても、まぁそんな感じ、と言いつつ、でもそれではしっくりこないんだのなぁ、と思う。

いやだと言うほどではないけどちょっとそれに近いネガティブな感覚で気になってるんだよな、とか、いらっとしているまでではないけどそこに向かいそうな小さな感覚があるな、とか。
ネガティブな強めの感覚に近い場合、それを言うとネガティブみが大きくなる気がするし、その印象が強くなる気がする。
だから、いやだとかいらっとするとかは使わずに、でもちょっとだけネガティブな感じは伝わるとよく、ちょうどいいのが「もやっと」になる。

私のそのときどきの感覚を表すのにちょうどよく便利なんだと思う。

何かについて、もしくは、特定のことについて、「もやっとしている」のだけ伝われば足りることが多いとも思う。
私がもやっとしている、というのがわかればいいか、特定のこのことについてもやっとしている、というのがわかればいいか、それで話は進む気がする。
もやっと感の細かい感覚の違いとかは気にせずに、もやっとすることが伝わるとか共通認識とわかるとかで問題ないのではないかと思う。

詳しくいうとどういうことなのかを気にされたら話せばいいだけで、でも結局話しても細かい感じまでは伝わらない気がする。

「もやっとする」以外でも、そんな感じの感覚についての言葉をよく使うのだけど。
そういう言葉は、仕事の上だとなかなか使わせてもらえない感がある。

使うけど、使ったら、それはどういうことで、何が問題で、どうしたいの?ってなる。
明確にならないと、だめなような、そこにおいてもらえない感じがある。

それは、たとえば「腑に落ちない」「違和感」とかに言い換えても同じだけど。

でも、うまく説明できなくても、その「もやっと」などは大事だったりしない?
それがいずれ大きくなるかもしれないし、なんかの前兆かもしれないし。

何か感じるものがあった、言語化できないけどそこに何かがある、っていう、それは事実だしそれも大事なはずなのに。
うまく言えないから、記録されないとか、言わないとか、存在してないのと同じにされてしまうのはなんか違うしもったいなくない?

だから、グラレコをしたいんだよなぁ、と思う。
会議とかでの、そこにあるのに取り上げられにくいものを、そこにおいておくために。
言葉にしづらいものや、見えないものなどを、可視化しておいておくために。

おいておいたら、そこから気づいたり話したり思いついたりにつながるかもしれないから。

「もやっとする」は一応そうやって言葉にできているけど、それにすらならない何かほんのり漂うものだって、表情とか線とか色とかで、拾える可能性があるから、だからグラレコはいいなと思う。

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