見出し画像

問題の解決ばかりが目的じゃない。

以前、社内でちょこちょこときく不満や諦めの声について、そのような課題に関係しそうな部署の方に一応報告などしてみた。
別に不満とかを上にあげたいというわけではなくて、その人の担当している施策などに関わる情報かと思ったのと、改善するなら何か関われたらいいなぁと思って情報交換できるポジションとっておきたいなどと思ったから。

伝えた内容については、ある程度把握されていたこともあったけども、認識が違ったりはじめて聞いたこともあったようで、
「すぐに解決できないかもしれないけど情報共有は助かった」
というようなことを言われた。

だけど、解決しようとしてくれること自体はありがたいけど、解決してほしいのが目的ではないのだった。

というか、伝えたような、表に出てきたわかりやすい不満などの声だけで、根本的な解決ができるものでもないと思う部分なので、そんな期待はしていなかった。
そこだけ聞いて何か施策を考えようとするならむしろ止めたい気持ち。
(なので、何かやるなら現実確認から関わりたいと思った。)

なんか、こんな風に、不満とか問題とか何かが出てくると、すぐに解決しようとしてしまうことって多いと思う。
まぁ、問題っぽいことは、なくさないと、改善しないと、ってなるのはわかるんだけど。

でも、問題そうに思えることを解決しようとすることだけがいいことではないと思う。

何か問題っぽいことが起こったり見えたりしてきたとき、そこに問題があること自体はわかりやすいと思う。
すでに表面にあがってきているってことだから、問題が明確なように見える。
だからと言って、見えている問題が問題だとは限らない。

ほんとにそれが事実で問題なのか?というところを見たいと思う。
その状態自体が事実なのかどうか。
その状態をつくっているものがないかどうか。

問題っぽいとわかっているのに、そこに問題があるっていうことは、その見えている問題っぽいものだけが問題ではないことが多いと思う。
見えていてわかっているものだけが問題になるのなら、すでに何か対応されて改善されるだろうと思うから。
そんな簡単な問題じゃないから、そこにあり続けてしまっている。

もちろん、そこに問題があるね、なんとかしないとね、って、改善すべきこととしてテーブルに載せようとするのは必要で大事だし、載せてくれるならありがたい。

でも、問題だと認識してテーブルに載せてしまうことで、そのテーブルからはやくなくすことが目的にならないように気をつけたいと思う。
解決しなきゃ、と思いすぎることで、見るべきところまで見ないうちに進んでしまうことがある。
表面だけ対策しただけで、解決に近づいた気分でいったん終わりにされてしまったりする。

そうならないように、とりあえず取り上げて解決というよりは、そこに何があるのか、じっくり見ていけるといいなと思うのだ。

ライティング・ライフ・プロジェクト2024年6月期募集中です。
お問い合わせなどはこちらからどうぞ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?