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うつせみ

情景はもう、記憶のなかでやさしく色あせるほど前のこと。短歌を趣味としていた時期があった。といっても短歌会に所属したり作品を発表したりしたわけではなく、ただ密やかな個人的趣味としてである。15年ほども続けていただろうか。歌は恋をすればやわらかくなり、仕事に没頭すれば勇ましくなる。そんな自分のおかしみあふれる記録でもあった。折りに触れノートをひらいては心に浮かぶままを書き付けたり、言葉をあれこれ差し替えたりするのが楽しみだった。

あるときひとつの恋をした。関係が始まってしばらく経って、恋人がノートを見せてほしいと言った。他人に見せるのは初めてだったが、嬉しくもあった。いつも無口な恋人が、私に関心を持ってくれたと舞い上がったのだ。一緒にいる時間がどれだけ幸せであるか、を詠んだ数首を見せると、ぽろぽろと感想の言葉をくれた。形式が、字余りがというひとつひとつの言葉が嬉しかった。

今から思えば、そのときに気づけばよかったのだと思う。歌に詠まれた私の幸福について、彼がひとことも触れなかったことに。

私と付き合い始めた1週間後くらいから彼が別の恋人をつくり、その彼女に心を傾けていることは察していた。SNSがある時代ゆえの悲劇、いや喜劇と言うべきか。共通の知り合いで、こぼれるような笑顔がうつくしい人だった。気づかないふりをしているうちに4年が経った。

石川啄木の『一握の砂』という歌集に、離れたひとを思う一首がある。

かの時に言ひそびれたる
大切の言葉は今も
胸に残れど
(石川啄木『一握の砂』

歌人の俵万智さんは、著書『あなたと読む恋の歌百首』で、「残れり」ではなく「残れど」であることに目を留めておられる。「残れり」と、完結して割り切った表現ではない。啄木の心のなかでは今も、ストーリーは続いているのだ。大切だよ、という言葉は今も、胸のなかに残っているけれど――。どれほどの時間、彼はこの言葉を胸のなかで噛み締め続けたのだろう。

「大切の言葉」を、私は数え切れないほど伝えた。笑顔のうつくしい彼女のもとに心を置きつつ、私とも会い続けるその人の心に、ひとつでもいいから届いてほしいと願った。もしかしたら、何かが変わるのではないかと期待した。でも結局届くことはなく、私の心にはむなしさだけが残ったのだった。そのとき思った。言いそびれるほうが、幸福なのだろうか。言葉が、届けたいという気持ちのまま胸のなかで生き続けるなら――。

二度と会わないと決めたのち、歌のノートはすべて破って捨ててしまった。以来、一首も詠んでいない。

脳裏に蘇るのは、退色し、黒くくすんだ色に変わった万年筆のブルーブラックの文字の羅列だ。それらがごみ袋に透けているのを見て、総毛立つような羞恥心に襲われた。ばかみだいた、私。もうどんな言葉が透けていたのかすら覚えていない。紙が裂ける乾いた音が、耳に残るだけ。

最後に詠んだのは、どんな歌だったか。あんなに愛でて吟味した言葉も、大切の言葉も、私のなかからなくなってしまった。彼のせいではない。ひとえに私が、ひ弱だったせいである。その程度の体験で潰える言葉しか、創作意欲しか、持っていなかったということだ。そんな歌が、どうして人の関心を惹く力を持てただろうか。臆病な自尊心と尊大な羞恥心でもあれば虎になれたろうものを、私は最初からただの空蝉だったのだろう。大切の言葉から始まる運命も、期待するまでもなかったのだ。

月やあらぬ 春や昔の春ならぬ
わが身ひとつはもとの身にして
(『伊勢物語』)



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