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伊能忠敬に触発された、50代での転職

50代での転職

人生の転機は、いつ訪れるか分かりません。
先人の経験に関する書籍を通じて、我々はそうした転機を知ることができます。
私にとっては、50代が人生の大きな節目となりました。
その理由は、伊能忠敬という偉大な先人が残した足跡です。

私は県庁では、デジタル技術やデータ解析を中心に携わっていたため、地図情報に興味を持っていました。
さまざまな情報を地図に重ね合わせることで、これまで見えてこなかった課題が発見されることが多かったからです。
この地図に関する興味は、Googleマップや地理院地図のデジタル版だけでなく、古い地図にも向けられていました。趣味として、各地の博物館めぐりも楽しんでいました。

博物館めぐりの中で、各藩が保有していた伊能図の写しを見る機会がありました。
それは、壁に貼る地図のサイズではなく、6畳一間というのがふさわしい、床いっぱいに広げる巨大サイズです。
こうした資料を目にするたびに、江戸時代にこれだけの精度の地図を作り上げた伊能忠敬に興味が湧いてきました。

そこで手にした一冊が、童門冬二氏の『伊能忠敬・日本を測量した男』です。作者の童門氏も、東京都職員の経歴を持つ元公務員の作家です。
歴史の知識としては伊能忠敬の名前を知っていましたが、その経歴をきちんと読んだのは、この本が初めてでした。

伊能忠敬は50歳までは酒造業を営んでいましたが、その後、天文学と測量術に魅了され、55歳から全国測量の旅に出ました。
彼の挑戦は、年齢に関係なく、情熱と意志があれば新たな道を切り開くことができるという強いメッセージを伝えていました。
私もその精神を見習い、50代で新たなキャリアに挑戦することを決意しました。

伊能忠敬の挑戦

伊能忠敬が測量に興味を持ち始めたのは、彼が50歳を過ぎてからのことです。
彼は、もともと下総国香取郡佐原村(現在の千葉県香取市)の豪農であり、酒造業で成功を収めていました。
普通の人間であれば、その後の人生は隠居して、余生を楽しむという人生を選択することでしょう。

しかし、忠敬の好奇心と学びへの情熱は年齢を超えて燃え続けました。
忠敬は江戸に出て高橋至時という天文学者に師事し、暦学、天体観測、測量術を学びました。これが彼の人生の大きな転機となったのです。
まさに現代でいうところのリスキリングでしょう。そこで専門的スキルを身につけ、次なるステップとして、地図作りに挑戦することになります。

忠敬の測量の旅は1800年に始まりました。彼が最初に行ったのは東北地方の測量です。測量のために何百キロも歩き、その間に詳細な地図を作成しました。その地図は、正確さと緻密さで驚かれるもので、後に日本全土の地図作成の基礎となりました。

忠敬の測量は彼の死後も続けられ、弟子たちが彼の意志を継ぎました。
これこそ、身をもって示す教育だと思い、私もこうありたいと考えるようになりました。彼が生涯をかけて作成した日本地図は、今日でもその正確さに驚かれるほどのものであり、彼の遺産として受け継がれています。

伊能忠敬の生涯と業績は、多くの人々に、年齢を超えて新しいことに挑戦する勇気と希望を与えてくれています。

私の新たな挑戦

伊能忠敬の精神が意識に刷り込まれた私は、新しい挑戦に踏み出しました。
30代半ばから40代にかけて私が取り組んでいたのは、自己啓発や資格取得でした。

情報システムやデータ解析のスキルを活かすことで、県庁の中での担当業務は、他の職員が真似できないほどの効率化をもって対応し、残業やストレスを抱えることもありませんでした。
本庁課長補佐級で、部下も多数抱える中でも、時差の早朝出勤で16時退庁を遵守し、自身の学びの時間の確保も余裕をもって対応することができました。

しかし、羅針盤をもたない独学的自己研鑽は限界を迎えていました。
いまであれば、このような独学の名著も出ており、独学術なるものの情報が多数でてきています。

しかし、私の自己研鑽に限界を感じていた頃、こうした書籍はまだ出ておらず、なにかしらの系統だった学び直しが必要ではないかと考えるようになりました。これが、まず、大学院の修士課程に進もうと思ったきっかけです。

修士課程においては、専門に関する勉強はもちろんですが、モノゴトを系統だって考える術を身に着けたいと考えました。そうして、20数年ぶりに大学に通うことになりました。
そこで多くのことを学ぶうちに、2年の修士課程で終えるのではなく、さらなる思考のトレーニングを積みたいと思い、博士課程に進学しました。

この博士課程への進学、そして県庁職員とは別の研究者としての立場を持つ中で、この大学院での学びは、県庁職員としての延長線上にあるキャリアアップではなく、全く新しい分野につながるのではないかと考えるようになりました。
具体的には、人材育成の分野に興味を持ち始めました。
私がこれまで培ってきた知識や経験を活かしつつ、新しい視点で社会に貢献できると感じたからです。

修士課程での学び直しを選択したことは、私にとって大きな挑戦でした。
一つには、費用面の問題です。私は国立大学の修士課程で学びましたが、入学金を別にして授業料だけでも2年間で、100万円以上の出費になります。海外留学に比較すれば格安ですが、公務員にとって、やはり100万円の出費は大金です。
また、社会人として平日の7時間45分を働く必要があるため、仕事を終えての大学院の授業による学び直しは、決して簡単なものではありません。しかし、伊能忠敬の精神に鼓舞され、私は大学院で学ぶ新しい知識を貪欲に吸収し、経営学の分野での専門性を高めていきました。

経営学を学ぶ中では、情報処理技術者としての経験が非常に役立ちました。デジタルツールやオンライン化の重要性が増す中で、私のITスキルは大きな武器となりました。また、システム開発のプロジェクトマネージャーとしての経験は、研究プログラムの企画・運営においても非常に有益でした。
そして、限られた時間の中で、最高のパフォーマンスを得るには、これまで自己啓発本から得た時間術や手帳術、ノート術といったことが、非常に役にたちました。

教育分野への転身

博士課程を修了した時、私は50代になっていました。
博士の学位を得るには、規定の本数の査読論文のアクセプトが必要になりますが、最後の一本の査読が通ったのは、博士課程最後の年の9月でした。
そして、そのタイミングで現任校の公募が、それも自分の専門と完全一致の内容でだされていることを知りました。
その9月末から、あわてて、全く未着手だった博士論文を仕上げるのと並行して、公募書類の作成をすすめていきました。
博士の第1回目の公聴会に向かう途中で、郵便局に立ち寄り、公募書類を発送しました。

博士課程を終了して、大学教員になる困難さはまた別の機会に紹介したいと思いますが、私の場合、初めて応募した公募案件で内定をいただきました。これも本当に偶然の結果なのですが、後から大学教員の公募について知ったところでは、100件の公募を出して、2~3件、1次の書類審査が通過でき、面接まで進めても、採用者はその中から一人だけになります。
私は幸運だったと思います。
これで、無事、研究者となり、新しいキャリアをスタートすることができました。

私が新しい挑戦を選んだ理由は、伊能忠敬のように年齢に関係なく、常に学び続け、新しいことに挑戦する姿勢を持ち続けたいと思ったからです。
忠敬の精神を見習い、私も50代での転職に成功し、教育分野での新たなキャリアを切り開くことができました。

年齢を重ねても、新しいことに挑戦することは可能です。
大切なのは、情熱を持ち続けること、学び続けること、そして自分の限界を超えていく勇気を持つことです。
これからも、伊能忠敬の精神を胸に、さらなる挑戦を続けていきたいと思います。

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