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【連載小説】アイちゃんがいた居酒屋(第7回)

 翌朝、道江は施設でアイちゃんの着替えを預かって、すぐに病院へ向かった。
 バスは通勤通学の時間で混み合っていた。大きな荷物を持っていたためか親切な学生に席を譲られて、いつになくはにかんだ気がした。
 バスが病院に着いた時には、乗客は道江の他に三人だけだった。彼らは病院に勤める職員らしく先に急ぐように降りて行った。道江は荷物を持ったままドアの取っ手をつかみながらゆっくりとバスを降りた。
 来島愛は先に来ていた。玄関口のガラス越しに見えた彼女の白いセーターのジーパン姿が清々しかった。
「早かったのね。ありがとう」
 道江は息を弾ませながら言った。肘に掛けていた荷物を片方の腕へ持ち替えようとすると、来島愛が笑みを浮かべながらそれを引き取って、自分から先にロビーの方へ歩き出した。道江は来島愛の心遣いが嬉しかった。ひと息ついて足早に彼女を追った。
 病室へ向かう廊下には看護師達が忙しく往き来していた。病室に入ると、アイちゃんは三列並んだ真ん中のベッドにいた。カーテンが半開きのままだった。ちょうど看護師が朝の検温などの見回りを終えたところだった。
 看護師は、ベッドの脇に立っている道江と来島愛に、「ご心配はいりません」とだけ言って隣の患者の方へ移って行った。
 二人は心配顔をほころばせながらベッドのアイちゃんを見下ろした。すると、アイちゃんが小さく微笑んだ。初対面の来島愛は両手を前に揃えて深々と頭を下げた。
「綺麗なお嬢さんね。お名前は」
 アイちゃんが細い声で尋ねた。
「来島愛です。ありがとうございます」
「まぁ、愛ちゃんね。私と同じ」
 道江は、その時アイちゃんの瞳の光が一瞬だけ潤んだように見えた。
「名前、偶然ね。お店の新しいお客さんで、ここの附属病院と同じ大学の女子大生さん」
 道江はそう来島愛を紹介しながら、着替えの荷物をベッドのサイドテーブルの上に載せた。
「ありがとう、みっちゃん」
 アイちゃんの優しい声がした。
「よかった元気で、アイちゃん」
 道江は、アイちゃんが思ったより容態がよかったことにひと安心した。来島愛もずっと微笑をたたえた笑顔で見守っていた。
 しばらく月ノ川の様子を話題に過ごした。あの常連客は来ているか、アイリスのママは繁盛しているか、骨付きもも焼きは売れているか、アイちゃんは自分よりも店を心配していた。その話題のたびに道江は恐縮するばかりだった。
 そんな他愛のない話題が尽きて、薄暗いベッドに沈黙が通うと、アイちゃんは心が安らいだのか自然とまどろみ始めた。
 そこへ、再び看護師が病室へやって来た。主治医の回診が始まることを告げて行った。
 道江と来島愛は、眠っていたアイちゃんに「明日も来るから」と声を掛けて帰ることにした。気づいたアイちゃんが小声で「ありがと」と短く言った。道江はアイちゃんが寂しそうにしたのが可哀想だった。着替えを手に、来島愛と静かに病室を後にした。

 長く奥まった廊下に出ると、白衣の一団が現れた。先頭の主治医の教授が十数人の研修医たちを引き連れていた。まるで映画の撮影に出くわしたような一瞬だった。道江と来島愛は廊下の壁に背中をピッタリと付けてその一団を見送った。走り回っていた看護師達はその場に立ち止まってうやうやしく頭を下げていた。
 道江と来島愛は、広いロビーを抜けて病室の玄関まで出て来ると、揃って大きく深呼吸をした。
「あぁ、驚いた」
「凄かったですね。ほんとに白い巨塔ね」
「そうそう、それよ」
「あんなに大勢では初めての患者さんは驚くでしょうね」
 道江は大きく頷いてほくそ笑んだ。
「愛ちゃん、これから時間はあるの」
「はい。今日は授業は午後に一つだけ。ゼミの先生から卒論の指導があるんです」
「大変ね、いいのかしら。じゃぁ、大学通りのどこか喫茶店に行きましょ」
 来島愛がにこやかに頷いた。

 病院のある医学部と他の学部のあるキャンパスとは遠く離れていた。二人を乗せたバスは県庁に近い街なかに入って来た。大学はその官庁街の外れにあった。二人は正門前のバス停で降りて、そこからほんの近くの小さな喫茶店に入った。
 こじんまりとした店内は夜にはショットバーになるらしく薄暗かった。道江と来島愛は窓際のテーブル席に着いた。そこだけが外の陽が差してほのかに明るかった。
 向かい合って座った二人は、どちらからともなく笑顔がこぼれた。前の晩から忙しく動いていたことと、何よりもアイちゃんの病状にひとまず胸を撫で下ろした思いが頬を緩めた。道江は大きく深呼吸しながら言った。
「愛ちゃん、ありがとうね。勉強で忙しいのに、ごめんなさいね」
「いいえ、女将さんの方こそ、ご苦労様です」
 来島愛が両手を膝に乗せて丁寧にお辞儀をした。
 そこへ、バンダナをした中年の男の店主が少し気だるそうな素振りで注文を取りに来た。テーブルにあるメニューを見ると、昼間のドリンク類はいくつもなかった。仕方なく道江は「ブレンド」と言うと、来島愛も「同じで」と控えめに応えた。店主が下がって行くと、二人は何となくその場に慣れるまで窓の外を眺めていた。
 通りには大学キャンパスの低い煉瓦塀があり、その少し先に石造りの正門が見えた。バス停から二十人ほどの学生たちが正門に向かって歩いて行く。不思議と話を交わしている学生の姿がなかった。
 道江は、そのわけを目の前にいる同じ大学生の来島愛に聞いてみようかと思ったが何となくやめた。他愛のない話をするよりも、聞いてみたいことが道江にはあった。
「愛ちゃん、福島だったわね。ご両親は」
 しかし言ってしまってから、特に理由のないことを話した自分が差し出がましく思われた。道江は言い出した言葉を飲み込むように口をつぐんだ。
 窓のすぐそばをバスが通り過ぎて行った。彼女は遠のくバスを見送るように視線を送っていた。その様子には何か思い詰めた緊張が漂っていた。それきり、二人はしばし沈黙の中にいた。
 そこへ、店主が来て注文したブレンドコーヒーを置いて行った。ブレンドの香りが漂った。沈黙が解けて、来島愛が決めかねていたことを決心するように徐ろに話し始めた。
「両親は津波で亡くしました。でもほんとの親ではありません、二人とも。私を産んだ母親を私は知らないんです。ずっと知らないで生きてきました。私は貰いっ子なんです。でも津波で死んだ両親は私をとても愛してくれました。だから今、私は天涯孤独の身…なんです」
「もういいのよ、それ以上言わなくて、愛ちゃん」
 思いの丈を止めなければと、道江は思った。ひと思いに言った来島愛は、もう何でも聞いてくださいとでも言いそうな固い表情を向けた。堪えていた気持ちを押し殺しているようだった。
 道江はひどく悲しかった。
「ごめんなさい、愛ちゃん。余計なこと聞いてしまって。許して…」
 声がつまった。道江は手を拝むようにして謝った。来島愛はゆっくり気持ちを落ち着かせようと呼吸を整えながら言った。
「みんなほんとのことですから。いつか誰かに言って、知ってほしかったんです」
 それから、来島愛は問わず語りに少しずつ自分を語り始めた。
 
 来島愛が小学六年生の時だった。六時限目の授業中に大きな地震が起こった。校内放送が全員校庭から裏山の高台へ走るよう告げた。前の年にも少し大きめな地震があった。それで一度校内で大掛かりな避難訓練をした。その甲斐あって全校生徒が自主的に動いた。高台に登り着いた頃には大津波の警報が町中に鳴り響いていた。
 来島愛ばかりではない。誰もが恐怖におののき家族の安否を気遣い泣き出していた。先生たちは気丈に生徒を励まし、その後の行動を話し合っていた。
 やがて大津波が来た。生徒の目に触れないよう先生たちは生徒を木立の下に集めていた。鳴き声は止まない。走り出そうとする男の子もいた。「お母さん、お父さん」と叫ぶ声があちらこちらでしていた。先生たちもとうとう屈みながら、呆然と子供たちを何人もの抱えるようにして身を震わせていた。
 そして夕闇が来た。津波の音はまだしていた。小雪が舞う中、生徒たちは先生に引率されて指定された避難所へ向かった。皆そこで一週間を過ごした。親が迎えに来た者、来ない者、迷子のように避難所の中をさまよう者。小さな体が寒さに凍えながらうごめいていた。
 そして二週間が過ぎた。生徒のうち迎えのなかった数人が避難所に取り残された。来島愛もその一人だった。
 来島愛の待っていた里親はとうとう帰らなかった。父は魚市場で、母は漁協組合でそれぞれ働いていたが、どうしたわけか二人とも津波にさらわれ遺体も見つからなかった。皆が帰るはずの家も流されてしまった。
 二人は来島愛を児童養護施設から貰い受けた。子のなかった二人にとって自分たちとは似ても似つかない九歳の美貌の少女は自慢の子だった。小学校でも勉強の良くできる健康な子だった。しかし二人は彼女をそこまでしか知らないで亡くなってしまった。
 来島愛は、その後再び児童養護施設に引き取られ中学校と高校に通った。養子の話もあったが、二度も親を失った彼女にとってそれは耐えられることではなかった。独立心を身につけた彼女は奨学金を得て東北の小都市にある国立大学に入学した。自分を忘れられる理系が好きだった。物理学を選んだのは頭を使うだけでなく現実を学べるからだった。
 幼くして見舞われた地震の惨禍は津波だけではなかった。原発事故も起きた。放射性物質の放出による汚染区域が拡大し人々は住んでいた土地から避難、いくつかの町や村では帰還できない状態が続いた。
 来島愛はその当事者でもあった。卒論のテーマに震災を触れないわけにいかなかった。その卒論の仕上げが近づいていた。
 
 道江は、来島愛が自分の生きてきた歩みを気丈に語るのを聞いて不憫に思えてならなかった。慰めるような言葉が思い浮かばなかった。何を言っても、それで彼女が救われるわけではないし。でも、しっかりした頭のいい子だもの大丈夫。そう、道江は思うことにした。
 そんな道江の心の裡は的中した。突然来島愛が自分の決心していたことを告げた。
「私、卒業したら外国で働くんです」
 来島愛は詳しくは語らなかったが、「平和な世界になるように世の中のために働きたい」とだけ控えめに語った。
 未知数はたくさんある。けれど、それはそのまま大きな夢なのだ。道江は驚きを沈めるように静かに心にとめた。
 来島愛ははにかむような笑みを浮かべた。道江も同じようにして頷いた。そうして、二人はほんの短い瞬間お互いに通う心持ちを噛み締め合っていた。
 そんな沈黙のひと時が続くと、すっかりブレンドコーヒーが冷めてしまっていた。道江は代わりを注文するためにマスターを呼ぼうと、視線を店の奥の方へ向けた。
 しかし、すでに大学のゼミが始まる時刻が迫っていた。来島愛は腕時計を見ながら申し訳なさそうに声をすぼめて言った。
「すいません。もうゼミに向かわなければなりません。またお店の方にお邪魔します」
「そうだったわね。お勉強、頑張って。さぁ行きなさい。またね」
 気づいた道江が言うと、来島愛は別れを惜しむように深々と頭を下げて店を出て行った。
 道江は窓の向こうを見た。来島愛が信号を渡って正門へ入って行くところだった。夏を呼ぶ空の下、彼女の姿はジーパンの軽装ながら華やかな輝きを放って見えた。
 しかし、その華やかさの陰に二人の親を失った来島愛の悲しみが思い起こされてならなかった。道江はしばらく外を眺めていた。小一時間もそうしていただろうか。バスがやって来た。道江はゆっくり腰を上げ喫茶店を出た。
(つづく・全11回)

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