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子どもとともに暮らすこと

以前は何の疑問も抱かなかった言葉であっても、いざ自分がその言葉を向けられる立場になると、途端にわからなくなることがある。
最近は、「子育て」という言葉がわからない。

以前、生後2か月ほどのうちの子(以下「小さな所長」と呼ぶ)を抱いていると「楽しみですね」と声をかけられ、戸惑ったことがある。将来有望だということなら、ありがたいとは思う。
でも、私は何と返していいかわからず、変な間があいてしまった。

「楽しみというか、もう楽しいんです」とでも返せばよかったのだろうか。
子どもを将来のために育てているという意識はあまりない。
私は、子育てをしているというより、ただ、子どもとともに暮らしているのだ。

恥ずかしい話だが、私は掃除や片づけが苦手だ。
よく妻が私の散らかした資料などをきれいに片づけてくれていて、とても申し訳ない気持ちになることがある。
だからと言って、妻は私を育てているつもりではないだろう。……たぶん。

幼少時代に実家にいた猫だって、猫を大きくしたくて、実家で「猫育て」していたわけではないだろう。
何の役にも立たなくても、抱こうとするとひっかかれても、大事な本の上にネズミを置かれても、それでもかわいくて、一緒にいたいから、ともに暮らしていたのだ。

今の私は、うちの小さな所長を抱いたり、おむつを替えたり、あやしたり、お風呂に入れたり、オシッコをかけられたり、蹴飛ばされたり、強引に頬ずりしたりしているけれど、それは「子育て」なのだろうか。
以前の私が見たら、何の疑いもなく「子育て」だと言うのかもしれない。
けれど、意識の上では、やっぱり「ともに暮らしている」というほうがしっくりくる。

私は「あそびらき」と称して、<こうもりあそびば>という近所の子どもたちが遊びに来られる場を開いている。

それは、子どもたちの将来のために何かを教えてやろうという気持ちでやっているわけではない。というか、なるべくそういう気持ちを持たないようにしている。何より自分自身が遊ぶことで、誰かの遊びをひらく。つまり、あそびらくことを大切にしている。

「あそびらき」では、みんなが一緒にひとつのことをして遊ぶのではなく、ただ場を共有する。
誰かが遊ばれるのではなくて、遊ばせられるのでもなくて、誰もがそれぞれに遊ぶことを志向する。
そのために葛藤することもしばしばあるけれど、楽しく過ごせる場であるようにみんなが試行錯誤する。

それはちっとも「子育て」ではないけれど、結果的に子どもは育つのだろうし、私も育つ。

小さな所長とともに暮らすことも、そんな「あそびらき」も、何か通底するものがある。

「子どもとともに暮らす」ということは、それと意識はしなくとも、同じ場を共有する誰もが居心地良く暮らせるようにふるまう、不断の営みを含んでいる。
言い換えればそれは、他者の育ちを保障する営み、ということなのかもしれない。

私が小さな所長の世話をすることもあれば、夫婦が互いの世話をすることもある。私が小さな所長に癒されていることもあるし、ときにはいらだつこともあるだろう。
たくさんの幸せと、さまざまな葛藤を含んだ日々の暮らしのなかで、私たちは育っていく。

小さな所長も彼なりに日々葛藤しながら、今もすくすくと育っている。

「子育て」という言葉は、主体がはっきりし過ぎていて、なんだかうまく使えない。本来、子どもとともに暮らす主体は、誰と決まっているわけではない。とてもあいまいだ。
親だけじゃない。近所に暮らす人だって、友人だって、うちの小さな所長と同じ地域で、ともに暮らしている。
「ともに」という意味合いの濃淡に、グラデーションがあるというだけだ。

小さな所長とも、近所の子どもたちとも、私はともに、暮らしている。

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