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「片思い」から始まる子どもとの関係

直前まで一緒に遊んでいても、何かあるとすぐ「お母さんがいい」と言い出す。

朝起きたときに母親がおらずに私だけだと、泣いてしまう。
困ったときには頼ってくれない。

ときどきふと、父親って何なのだろうと思う。(ため息交じり)

生まれたばかりの赤ん坊は、自他の区別があいまいだとされる。
それは無理もないことだ。
だって、いきなりこの世に生まれ出てきて、情報処理の仕組みもできていないのに、音や光や匂いなどの大量の感覚刺激をいきなり浴びせられるのだ。
しかも、最初は自分の手指すら思うように動かせない状態。他者どころか、どこまでが自分の身体で、どこからが環境なのかもあやふやだ。

そんな赤ん坊も、急速な発達にともなって、だんだん自他の区別ができるようになってくる。
そのとき最初に認識する他者は、たいてい母親だ。
状況によってはそれが父親やそのほかの場合もあるので、別の言い方にするなら、第一他者と言い換えてもいい。

第一他者が母親に偏りがちなのは、社会的要因も大きいけれど、生物学的要因に着目すると、授乳という行為が背景にあるだろう。
授乳という行為は、赤ん坊に栄養を与えるのみならず、安心という心の栄養も同時に与える。赤ん坊自身は、自分の欲求が満たされているときには、それらを与えてくれている第一他者の存在には気づかない。まさに一心同体の存在だ。
ところが、おなかが空いたり、不安になったりしたときに初めて、授乳してくれる存在がないことに気づき、泣くのだ。
他者と言ってもそれはただの他人ではない。最初から特別な人である。
自他の区別ができるようになっても、それは自ずから強い愛着関係で結ばれる。

そんなわけで(第一他者になりがちな)母親と赤ん坊の関係は、言ってみれば「気づいたら両思いになっていた」関係と言える。

赤ん坊と父親の出会いは、そんな母親と赤ん坊の関係とはちょっと違う。
父親は、赤ん坊にとって「最初の他人」である。ここでは、第二他者と言っておこう。

赤ん坊が自他の区別ができるようになったころ、赤ん坊と第一他者とは自ずから特別な関係を結んでいる。気づいたときには愛着関係ができていて、いわゆる「安全基地」であり、最初から他人ではない。
しかし、第二他者(多くは父親)とは最初から特別な関係を結べているわけではない。場合によっては、人見知りされてしまうような存在である。

こちらがどれだけ赤ん坊のことを可愛く、愛しく思っていようと関係ない。
父親は赤ん坊への片思いから始まるのだ。

(※もちろん、これに当てはまらない人もいると思う。私が知らないだけで、両親のどちらかではなく、「父母ともに第一他者」となる場合だってあるのかもしれない。逆に、赤ん坊への愛情が最初から備わっている親ばかりでもないのだろう)

DSC_1699_Rのコピー

ただ、そんな片思いから始まった関係だからこそ、経験できる喜びもある。
その喜びとは、ゼロから愛着関係を結んでいくプロセスを経験できるということ。

だんだん特別な関係になっていく。
抱っこを受け入れてくれたとき。
いっしょに遊びたいと言ってくれたとき。
絵本を読んでほしいと言ってくれたとき。

そんな「片思いが成就する」ような喜びはきっと、第二他者(多くは父親)にしか体験できない感覚だろう。

そして、子どもにとっても、他人とゼロから関係を築いていく最初の経験として、第二他者という存在は非常に重要な意味がある……かもしれない。

第一他者は、子どもの成長に対する感情が複雑になりがちだ。
子育てのまっただ中にいるときは煩わしさもあるけれど、次第に子どもが成長し、第一他者を必要とする場面が少なくなるたび、さみしさが生じる。
成長に伴うさみしさは私にもあるけれど、妻の方が大きいように見える。

息子はこれから先、抱っこをねだらなくなり、手をつなぎたがらなくなり、一人で眠れるようになるのだろう。

第二他者である私は、そもそも片思いのスタートなので、必要とされることがそもそも貴重なこと。

「お父さんといっしょに遊びたいよぅ」
最近、そう言ってくれることが増えてきた。
「(お母さんだけじゃなく)みんなで遊びたいよぅ」と言うことも増えてきた。
少しずつ、両思いになってきたのかもしれない。

育休はとれないフリーランス。
もっと一緒に居られる時間をつくれたらなぁ……。


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