かけらを集めていく
いつもよりフワフワしながら歩いているのは、ついさっきまで時計をチラチラ見ながらできるだけ高速で音色の修正作業をしていたからか。
それとも、届いたメッセージを確認して少し感情的になってお返事をしたからか。
あるいは、その両方か。
桜が終わってやや落ち着きを取り戻した空間を歩く。
春らしいお花が並んでいる。
白やピンクの花びらと緑色の葉っぱの組み合わせが生み出す生命力は、何とも「春」という感じで、それが感情の高ぶりを助長しているようにも感じられる。
きっとこの景色は人間らしい面白い感情体験と結びついて切り取られ、記憶の中に蓄積していくんだろう。
学習支援のお仕事では、小さなコミュニケーションの丁寧な積み重ねの大切さを改めて認識する日々だ。
突然古代の文学作品にはまり始めた女の子と一緒に分析をし、素直な感想を聞きながら、次の新しい興味関心に繋がりそうな複数の軸を設定していく。
それはコミュニケーションの中の偶然性から生まれる欠片を集めていく結構地道な作業ではある。
そのプロセスを省かないのは、話題に出た1冊の本が、ちょっとだけ一緒に読んでみた文章が、その子の人生を大きく変える、なんてことは本当によくあるから。
もう毎年の恒例行事のようになっているかもしれない。
そうやって関わっている子供たちの世界が広がり、笑顔が増えていき、驚くほど成長していく姿を見ることができるのは、ある意味でギフトであり特権的なものでもあるんだと思う。
実際、自分自身の個人的な人生をより豊かにし、何かしら挑戦してみる機会を増やしていくことを意識するのと連動して、与えられるものも劇的に増えていく。
そうすると彼らが変化するスピードも速くなる。
だからある側面から見れば、それは「努力」に対する「ご褒美」的な部分もあるにはあるんだと思う。
ただ、それを「自分だけの特権であり喜び」にしていくのは、ちょっと違うのかな、と最近は思うようになった。
同じような体験を作り出すことができる側を増やしていく必要があるというのは、これまでも頭では分かっていたけれど、真剣に考えて現実に行動するようになったのは、大きな心境の変化があったからかもしれない。
そうした変化を起こすのは一見全く関係のない分野の出来事で、相関なんて全く見いだせないけれど、なぜか「繋がっている」という確信があるのは不思議だ。
自分が見ている世界の中で日々発生している現象は複雑に絡み合いながら、必要なタイミングで必然的に起こっている。
そこにどっぷり浸かっていると振り回されて、消耗していく。
だから、どういう風に見るか、そこから何を受け取って、どういう行動につなげていくか、というのは実は完全に自分自身に委ねられている、ということを確認するための時間を、普段の生活の中に少しだけ作っておく。
疲れたら躊躇せずに休む。
そうやって一歩一歩、進んでいけたらいいかなと思っている。
最後まで読んでいただいてとっても嬉しいです。ありがとうございます♡