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蘇生死刑 #6/9

 ツダコウシ物語、黎明れいめい

 思春期を迎える男子の頭の中は、色欲にまみれているそうだ。
 たとえば、ナカタニ君なんか、股間をこすりすぎて、最終的に血が出たそうだ。
「はぁ。ツダさん、知ってます? これ赤玉っていうらしいですよ」
 一人で打ち止めまで達していたら世話がないと思うが、そんな悩みがあるだけマシだ。
 私など、異性への好奇心や性に対する興味が全く湧かず、体だけが成長して中身が置いていかれる気分だった。成長期にあたり、特に内外の不一致を感じていた。
 この頃、家ではコテツという犬を飼っていた。
 産まれたての子犬だとばかり思っていたコテツは、一年で成犬になった。
 コテツは、発情期のメス犬を見るや否や、飛びかかるように覆い被さり、地を震わせるほどに腰を振ってみせた。
 それは、一頭の獣であり、本能に従う一匹のオスだった。彼は誰に教わるでもなく、生物としての歩むべきビジョンが見えているのだ。
 そんな猛々しかったコテツも、数年で足元がおぼつかない老犬になった。その成長の速度は人間の数倍といわれている。内外の不一致は私の比ではないだろう。
 あまりに不憫ふびんと思い、私はコテツの時を止めてあげようと決心した。
 父が死んでから、自宅には母方の叔父おじが顔を出すようになった。叔父の所有する山小屋には、彼が捕えた動物の剥製がたくさん飾ってあった。
 壁一面に並ぶ剥製たちは、静寂の中にありながら、その表面に貼り付けられられたテクスチャは、たぎる生が引き伸ばされたようにつやめいていた。
 そのうちの一つとして、コテツの剥製を加えるのは悪くないように思えた。
 叔父は、私を山小屋に連れ出しては性欲のけ口としていたが、私が声変わりをする頃には、私に対する興味を失っていた。コテツに対して私が抱いた感情と似たものを、彼も感じていたのかもしれない。
 コテツを毒殺した私は、その亡骸なきがらを叔父に引き渡した。剥製を作ってもらう約束を取り付けていたからだ。眠るように絶命していたコテツには、我が家に初めて来た頃の愛らしさが少なからず残っていた。
 間に合った。コテツが乾物かんぶつになる前に、その愛玩性をとどめることができた。そう胸を撫で下ろしたのも束の間、コテツの剥製の出来栄えを見て閉口してしまう。
 腹部の膨らみや関節の曲がり方など、動物の外観は、その内容物により形作られる。それらは、そうなるべくしてそうなる美しさがあった。中身を型と、そっくり入れ替えられたコテツは、まるでハリボテでスルメだった。
 他の動物の剥製に違和感は感じなかったが、寵愛ちょうあいするコテツは別だったということだ。生前の姿が目に焼き付いているため、その差異がどうにも気になってしまうのだ。
 叔父の技術不足によるものかどうかは分からない。とにかく、私がそれを作ることがあれば、素材の美しさを引き立てる努力を最大限しよう、とコテツのガラスの目玉を見て思った。

 ――メモリに余裕があります。なにかあれば、ツダさん、どうぞ。
 そういえば、警察官だった私の父を殺したイヌイという男が、服役中に死亡した。
 イヌイとは一度、腹を割って話がしたいと思っていただけに残念だ。
 人を殺してはいけない。
 法律によって保護される価値や利益の概念、〝法益〟を用いて、それがなぜ、やってはいけないことなのか説明ができる。
 人を殺してはいけない理由は、まず最も根本的な法益である〝生命〟を侵害する行為だから、である。生命の法益は個人の尊厳と密接に関連しており、人間の基本的な権利とされている。この生命の法益を侵害することは、社会の秩序や安全、そして人々の平和的な共存を脅かす行為と見なされるからだ。
 昔は日本で敵討ちが法的に認められていた時代があった。届け出を提出して許可を得るなどルールはあったものの、世が世ならイヌイを合法的に私の手で殺すことができた。
 そう、私はいつかイヌイを殺そうと思っていた。別に彼を恨んでなどいない。父とイヌイは、それぞれの立場のロールプレイをしただけのことだ。だから、その想いの源を問われれば、一つとられたから一ついただく、という極めて単純な自然の営みに由来するものだ。
 具体的な計画を立てていたわけではないが、それは私の密かな楽しみであった。また、彼という存在は、いつか私が道徳の授業で投票用紙にしたためた、三の選択肢の抑止力になっていた。
 その想いは、尿意に置き換えるとわかりやすい。便所のない部屋で過ごすのは、落ち着かないものだ。
 人を殺してはいけない。
 先の理由をシンプルに要約すると、殺されたくなかったら殺すな、ということだ。
 では、死にたがっている人間を殺すことは、いけないことか。

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