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才能も快と不快で決まるならそれはそれで深い不快な話

またまた深いと自分で言うのです。
個性とは快不快の感度の違いであり、決めることや考えることは不快なことだと、これまでに書いてきました。

さて「不快」なこととは具体的に何でしょう。
痛い・かゆい・あつい・冷たい・寒い・苦しい等々。
これらは要するに生命の危機が迫ってきているサインです。
このまま放置したり突き進むとダメだという、リミッターあるいはストッパーとも言えます。
個性は、快不快への感度の違いと書きましたが、ストッパーの位置の違いとも言い換えることができるでしょう。

力を出そうとする時、最大限の力を出してしまって、筋肉を痛めたり、関節を壊したりすることを防ぐために、脳はストッパーで制限しています。なので普段は最大限の力は出せないようになっています。
強い力を出せば出すほど苦しくなってくるのは、それが当たり前のように感じていましたが、脳が出しているサインだったのです。
火事場の馬鹿力というものがあるのは、緊急的にストッパーが外れるのでしょう。

身体を鍛えるような時に一定以上追い込めないと、根性が足りないという前近代的表現を用いてましたが、単にストッパーの位置が手前にあるのだという見方ができます。
その動作を慣れさせて、脳のストッパーの位置を変えていくことが、トレーニングを積むということなのでしょう。
訓練とかトレーニングという言葉を用いると、なんだかしんどいですが、脳のストッパーを変えるんだと思うと、客観的・俯瞰的になって、辛い思いをしなくて良いかもしれません。

一流のアスリートはストッパーの位置が常人離れしていて、かつ身体が強い、柔らかいなどの素質が運良く相互作用しているのかもしれません。
もしかしたら身体が強いとか柔らかいという素質なども、いろいろなストッパーの位置が絶妙に配置されていて、赤ん坊の頃から知らず知らずのうちに鍛えられ培われてきたとも考えられるでしょう。

となると、快不快への感度の違い=ストッパーの位置の違いは個性だけを表しているのではなく、素質・才能にも関わってきているのではないかと思ってしまいます。
先天的なのは快不快への感度の違い・ストッパーの位置の違いだけで、多くの先天的と思われる才能は後天的なものかもしれません。
主に幼少時に培われてしまっているので、先天的に見えるだけなのかも。

では頭の良さという才能はどうなのでしょう。
これも快不快への感度の違い・ストッパーの位置の違いが起因という仮説を立てたとして、その因果を妄想してみましょう。

今ボクはアプリのプログラミングをしています。
プログラムでは、多くの変数を扱って、多くの画面を行き来します。
やりたいことが増えると、それらの状況が複雑になってきます。
変数が増え、条件が増え、どんどん複雑になっていきます。
数十の変数を持つ数十の画面が、それぞれ数十の条件を持って、いろいろな表示をしています。
それらが増えていくと、考えることが次第に苦しく、不快になってきます(よくnoteへ現実逃避しに来てしまいます)。
考えることは不快であるということは、命の危険でもあるのです。脳がエネルギーをいたずらに消費しないようストップをかけてるのです。
あるいは咄嗟の判断が必要な時に備えて、脳の余力を残そうともしているかもしれません。
いずれにせよ、筋肉が最大限に力を出せない構図に似ています。

このような考える不快さのストッパーが先天的に常人離れの位置にあり、考えることがなかなか不快と感じない人はどうなるでしょう。
おそらく小さい頃から複雑なことを考えても苦に思わなかったでしょう。
複雑なことを何度も考えると、神経回路が次第に複雑に形成されていくはずです。
そうすると、さらに複雑なことを不快なく考えられるようになります。
そしてさらに複雑な神経回路が出来上がっていく。
先天的に頭が良いとされている人は、先天的に考えることを不快に感じない人だとも言えるのではないでしょうか。
この因果は論理的に成立しそうです。
頭の良さと言われる才能さえも、快不快の感度の違いで決まるのかもしれない。

うーむ。
ここまで、ただ理屈を淡々と述べているだけだな。
とっても不快な記事じゃないですか。
いつものフザケたギャグもはさまなかった。
理屈だらけで小難しい。
考えないといけない。不快です。
いや、これくらいで不快だと感じるようなら、それはすなわち「考える不快さ」ストッパーが、かなり手前にあるってことです。
つまりそれは、頭が悪いってこと、、、、
さあさあ、違う意味で不快な記事になりつつあるので店仕舞いしよう。
しかし次回の記事では、さらに深い深い不快な所へ誘うのであります。それではまた。


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