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何もないったらありゃしない

先日、約2ヶ月ぶりに自宅のマンションに帰った。
なんと片付いていて綺麗なことか。
How clean my home is !
もともと物が少ない家だった上に、ボクの私物はほとんど移動させたから物が全然ない。
今は子ども達も住んでいないし、一人で住んでいる妻は物に固執しないタイプだからなおさらだ。
何もないったらありゃしない。

ん?
何もないったらありゃしない、って何だ?
何も無いが有ることは無いとは?
There is nothing more than there is nothing.
何も無いより何も無い?

それはともかく、今住んでいる”実家”(築60年リフォーム30年、9LDKKトイレ3)へ戻るとゲンナリした。
カオスだ。
エントロピーが牙をむいている。
これでも相当片付けたのだけど。
45Lゴミ袋を100枚近く使ったはずなのに。

とにかく無意味にデカいだけで無用の物を無秩序に溜め込んだ無駄に古い家の無尽蔵な容量にただただ無力感に苛まれてしまう。

デカいと言ってもたかだか106坪ほどの敷地なので、豪邸と言われるほどの広さはありません。
106坪って、わかりにくいかな。
だいたい甲子園球場の0.0091個分ですね。
おーわかりやすい。
さらにわかりやすくは、0.087エーカーほどです。なので、くまのプーさんが住む100エーカーの森の0.00087個分ですね。
ね。広くないでしょう。

とは言え、家はかなり片付けたのです。
少なくとも自分の視界に入る場所はなるべく綺麗にしました。
最初、整然としている部屋は2部屋だけでした。
仏壇のある8畳の和室と、それとの続き間である6畳の和室だけです。毎月お坊さんが来るので、それなりにメンテナンスしていたからです。
そこをまず母とボクの寝室として、日中に最も在室するリビング(茶の間)を片付けることにしました。

リビングは6年前に畳からフローリングにしていましたが、忌まわしきは絨毯です。食事をする部屋に絨毯を敷くなんて。
昔の人は洋室といえば絨毯を敷くものという固定観念があったのか、あるいは絨毯への憧れがあったのか、他のいくつかの和室にさえ絨毯を敷いています。
リビングの絨毯を引っぺ剥がした勢いで、家中の絨毯や敷物を6枚ほど引き剥がしました。

そしてどんどん不要な物をゴミ袋に入れていきます。
まだ使えそうな物、新品同然の物も容赦しません。
悩んだ末に捨てなかったら、いずれまた悩まなくてはいけなくなる。その時間も惜しいのです。
人生はそれほど長くはないのです。
メルカリで売れるかも、いや、メルカリで売ることに関わる時間のほうを惜しむんだ。小金なんかより時間だ。

どんどん捨ててスペースを生み出すのです。
次第に物であふれていた棚がスッキリしだします。
その棚に目をやると、以前は、
ああ何かあるよなあ、
いつ使うかわからない何かが置いてあるなあ、
たぶん使わないだろうなあ、
売れるかなあ、
捨てたいなあ、
捨てるの面倒だなあ、
などという思考がわずかに心の隅に湧いていたはずでした。無意識下では気持ち悪さを感じていたはずでした。
メルカリで売れそうだとしても、売るまではそろそろ売らないとなあっていう思考が心のスペースを侵食するのです。
そんなこんなを無くしてスペースを確保する。
物理的な空きスペースとともに、心の空きスペースも広げていく。

引き出しや押し入れも攻撃の的です。
使える爪切りがある、さっきも見た、要らん!
長い竹の定規がある、何に使うのだ、要らん!
おしゃれな巾着がある、だから何だ、要らん!
反物がゴロゴロでてきた、ええい、要らん!
どんどん空になっていきます。
いろいろとスッキリしだすと、細かなところにも目が行きます。
何かを貼り付けていたはずの残っていた画鋲、テープかシールの跡、できる限り殲滅していきます。
そうやってノイズリダクションしていったのです。

リビングの攻略が終わると、母の元々の寝室である和室、応接間、台所、冷蔵庫なども攻めていきました。
いろいろと片付き、掃除もしていくと、5年前の大阪北部地震の爪痕が気になり出しました。
当時このあたりでも震度5弱ほどあり、壁に多くの亀裂が入ったのです。
大きな亀裂は修繕したものの、細かなクロスの破れなどは放置されていました。

トイレがもっとも気になりました。壁の4面に破れと汚れがある。
加えて床タイルの目地の汚れが気になります。リフォーム後30年も経つとどうしようもない。
これらは素人では綺麗にできません。
やはりトイレが美しくないと心のQOLは向上しないでしょう。看過できません。
ここはプロに頼むことにしました。

ええい、いっそのこと古いエアコンも付け替えよう。なんとSANYO製の25年選手が3台もある。
玄関インターフォンも調子が悪い。
風呂のドアの建て付けも悪い。
母の認知症を考えて、手すりを付けたり、スイッチの位置を変えたり、センサーライトを付けたり。
あれもこれも、次から次へ、ええいええいと毎週のように業者に来てもらっていました。
いやはや散財した。

しかしなあ。
これらの話は、ボクがしつこく提唱している快不快理論の一環としようとしているのだけど、あの一世を風靡した「断捨離」理論とほとんど同じなのだろうなあ。
オリジナリティ第一を標榜するボクとしては忸怩たる思いがあるけど、ええい、ぬけぬけと突き進んでやれ。

人生は不快を遠ざけ、快を享受するだけなのです。
その快不快の感度の違いが個性であり、力の源泉なのです。
などと何度か書いてきました。
(気になる人はマガジンの過去記事を読んでください。誰も気にしないか)
そう、ただボクは乱雑にある物という不快を排除し、空いたスペースという快を広げていたんだ。
Just remove uncomfortable stuff, and expand cozy space.

形ある物はいずれ壊れる。朽ち果てる。不要になる。だから気持ち悪い。不快だ。
実体がない空間は朽ち果てない。永遠だ。気持ちがいい。快だ。
物に固執せず、実体のない「空」を追求する。
ほとんど仏教です。ほぼ般若心経です。
般若心経は「空」についての経典で、最も多く使われている文字が「無」なのですね。

ボクは無自覚に無謬の真理に目覚め、無敵の悟りを無欲に開いてしまうかもしれない。
このままだと無双の如来になってしまいそうだ。
無辜の民が無遠慮にお参りに来るかもなあ。
いや、まだ如来の0.00000000000000000001個分だな。
如来様を無邪気に1個2個と数えてはいけません。
ちなみにこの小さい数は1空虚って言うのじゃ。
おんあびらうんけんそわか。それではまた。

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