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恐怖のともにあらんことを

2022年4月17日
10年くらい前に、会社の朝会でのショートスピーチで、「絆(きずな)」という言葉が嫌いだ、気持ち悪い、と話したことがあります。
この「絆」という漢字は「ほだし」とも読めます。「情にほだされる」など、しがらみに絡みとられて、自由が利かないニュアンスがあります。

ウィキ先生によると、きずなの由来は、家畜を立木に繋いでおくための綱とあります。きずな(木-綱)、綱、繋ぐ、すべて同じグループの言葉です。繋がれるって、嫌な感じがします。

ただそういう意味があるからというより、団結とか結束を美しいものとする風潮が、何となく受け入れられなかったのです。なでしこジャパンがW杯で優勝した頃で、世の中の「絆ってスバラシイ」空気が充満していて、ボクには鼻についていました。

つい最近、オキシトシンという脳内物質についての記事を読んで、この件についてようやく腑に落ちました。
このオキシトシンは愛情ホルモンと呼ばれ、人と人との結びつき、連帯感で幸せに感じる脳内物質です。
しかし一方で、同じグループに属さない人を、攻撃的に排除することを促すホルモンでもあるようなのです。つまりグループの結束を強くするための連帯感ホルモンは、結束外の者を排除する攻撃ホルモンでもあるというダークサイドを持っていたのです。
ボクは「絆」に、そのダークサイドを感じ取っていたのだと納得できました。

いじめの問題も、オキシトシンのダークサイドで説明できるようです。
結束が必要な活動で、その連帯感が大きいと言えば、音楽の活動です。
例えば吹奏楽部です。実は、意外にもいじめが最も多い部活だそうです。
またクラス対抗の合唱コンクール大会があると、その練習期間中にいじめが多発するそうです。
どちらもシンクロナイズする(同期、同調)こと、つまり結束することを目指す活動です。

音楽活動などによって結束して、組織への帰属意識が高まると、連帯感にともなうオキシトシン量も増えるでしょう。そのぶんダークサイドがより暗くなります。
そのために、帰属できない人を見つけてしまうと、攻撃したくなり、いじめが増えるのです。

結束、連帯していると気持ちいい。しかし結束外の人を見ると、無性に攻撃したくなる。それがオキシトシンなのです。いじめが悪いことだとわかっていても逃れられないのです。

そもそも、オキシトシンは子供を守るためのホルモンのようです。授乳するときなどにオキシトシンは分泌されます。もしそんな時に、愛情を注いでいる子供に脅威があれば、攻撃が必要になるでしょう。オキシトシンのダークサイドは、子供を守るための攻撃性だったのです。
動物でも、子育て中の母熊などには、近づいてはいけないなど言われています。オキシトシンレベルが上がっているからでしょう。

ここ数十年で、団結やら結束系のものが教育現場で増えたような印象があります。ひと昔前、いやふた昔前か、ボクの中学高校時代、いや三つ昔前か、とにかく合唱やダンス大会のような、シンクロナイズされた結束型イベントなんて皆無だったように思います。しかし、今は大流行りのようです。ダンスの授業も始まっています。卒業式の呼びかけ?、声掛け?、なども団結結束系でしょう。
それらを教えたくなるのは理解できます。みんなが一つになって何かをやり遂げることは、教育的醍醐味が満載です。教育する側も教育される側も、それなりの連帯感、達成感、快感があります。
つまりオキシトシン分泌促進教育が激増した。そしてその代償が、いじめの増加だったのではないでしょうか。

オキシトシンの力=フォースには幸福感や連帯感というライトサイドと、いじめというダークサイドがある。この使い分けはとても難しいのでしょう。
フォースのライトサイドとダークサイドをうまくコントロールできたジェダイは、銀河の歴史上、ルーク・スカイウォーカーだけでした。ジェダイマスターの緑色の小さい爺ちゃんでも無理でした。

さて話は変わります。団体での規律や秩序を教えることは、教育現場では昔から重要視されてきました。体育館に生徒を集めて校長先生が訓話を垂れるときに、列を正して黙って聞く訓練を受けてきました。起立、礼、着席と言われて、整然とその行動が取れました。
その延長が、どんな災害時でも、暴動や略奪のようなカオスに至らない、日本人の行儀の良さにつながっているのかもしれません。

そんな団体での規律や秩序を教育するために、昔は恐怖が用いられていました。そのことを簡単に象徴的に表現すると、竹刀を持った体育教師の存在です。列を乱したり私語をすると、竹刀でシバかれるのです。今ならあり得ないです。

現在の教育現場はどうなっているのでしょう。最近の学園ドラマを観ると、体育館に集められた生徒は、列が乱れて私語し放題です。あれが現実なのでしょうか。恐怖を用いずに集団の秩序を教えられているのでしょうか。
そう言えば中学の時、クラス全員の前で体育教師に10回くらいの往復ビンタをされたことがあります。両頬が腫れ上がりました。今ならその教師は何らかの処分を受けるのでしょう。

ふと考えました。もしかしたら、竹刀を持った体育教師がいなくなって、いじめがさらに増えたのでは?

恐怖の対象がいると、恐怖ホルモンのコルチゾールやアドレナリンが出ます。オキシトシン分泌量は減るでしょう。なのでオキシトシン代償いじめも発生しません。
恐怖は集団の秩序を守り、集団をコントロールし、いじめを抑制することができるのです。

太古の昔、ヒトの群れを統率していたのはアルファオス(ボスザル)でした。アルファオスは身体も大きくて、最も強く、その恐怖によって群れを統率していたでしょう。常に人類は群れの中に恐怖を抱えていたのです。群れ、つまりコミニュティ内部に、恐怖の存在が無かったことを、人類は長く、何万年も経験していなかったはずです。
そして現代の群れ、学校内には恐怖の存在がなくなりました。オキシトシンが分泌し放題になりました。

竹刀を持った体育教師がいなくなって恐怖ホルモンが減り、シンクロナイズド結束型イベントが増えて、オキシトシンが過剰に増えた。その結果、いじめが増加した。
一見、平和と正義で美しくなった教育現場の裏では、ダークサイドがどんどん暗くなり、ついには悪の化身、ダースベイダーが生まれた。(※ここでダースベイダーのテーマ曲を挿入)

恐怖でコントロールすることで思い出しました。恐怖はダークサイドへつながると、緑色の爺ちゃんが臨終の間際に言っていました。
なるほど、だから爺ちゃんはダークサイドをコントロールできなかったんだ。
900年も長生きしたけど、実は何もわかっちゃいなかったんだ。
恐怖のともにあらんことを。May the Fear be with you.
それではまた。

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