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個を縛る「贈与」という「絆」

さて、古くからある家の直系の長男、つまり長男の長男の・・・長男に生まれてしまった、長い長い・・・長い愚痴を書きます。

4年前に母が施設に入り、3年前に父が亡くなって、大きくて古い家(9LDKKトイレ3、築60年超)が空いてしまったので、ヤモメの叔父に住んでもらっているのだけど、ボクは長男として家にまつわる呪いに近い慣習にほだされていて、もう面倒くさいやら鬱陶しいったらありゃしない。

  • 月命日で毎月お坊さんがお経をあげに来る。もちろん布施や仏壇の花や供え物やら諸々の準備が要る。

  • ほか、寺の檀家としての何やらがいろいろある。

  • 寺だけでなく、神社の氏子でもあり、祭事や何やらに狩り出される。

  • 寺と神社だけでなく、お地蔵さんの管理組合(地蔵講とか言う)のメンバーでもあり、周辺掃除や地蔵盆などのイベントの役務がある。

  • 地域の農会(ほとんど農業はやっていないのに組織だけある)および町会の何やら、墓地管理の何やらがいろいろある。

  • 消防団等、住んでいないので免除されている何やらがある(待ち構えている)。

これらはパブリックなことだけですが、もちろんプライベートなもろもろ(施設の母のこと、通常より広い親戚付き合い、通常より広い家や庭のメンテ、法事、墓参り、負債同然の不動産の管理)が「長男として」あるのです。
(墓参りは、墓がすぐ近くにあって、近所や親戚の目を気にして花を枯らさないようにしている意識が高く、どちらかというとパブリックな用事かもしれない)

そんなこんなを遺して、父は半ば突然逝ってしまったのです。
なので、いわゆる「引き継ぎ」というものがほとんどなかったのです。
そして母は認知症です。そもそも多くを知りません。
おまけにボク自身は、中学から地元の学校には行かず、大学卒業後さっさと家を離れたので、地域との接点がほとんどありません。
近所の古い家の人たちとの交流はゼロでした。パブリックな集まりは、知らんジーサンばっかりです(50代のボクなんて若手です)。
叔父たちも実家を離れて久しいので、多くの慣習とは無縁です。
会社で言えば、転職してきたばかりの若手社員が、引き継ぎなしで大きなプロジェクトのリーダーをやるようなものです。

そういう状況的なことに加え、さらに不幸なことは、ボクの気質がこんな古い慣習を倣うことに全く向いていないことなのです。
ボクは天邪鬼です。古い慣習や決まり事は破りたくなります。
そして何からも誰からも縛られたくない、自由人気質の持ち主なのです。
そう言えば昔、フランス人留学生に、お前はフランス人のようだと英語で言われたっけ。

そんなボクに親たちは、アンタは長男なんやから、長男が継いで当たり前や、などと小さい頃から何度も言いつけてきました。
しかしボクは何も感じず考えず、へらへらと人生を歩んできました。
そしていざそのミッションを背負ってみて分かりました。
しまった。
まったく向いていない。
いろいろとできないのです。できないだけでなく、やらない。
やることが分かっていたとしても、放置してしまうのです。
放置していて火を吹いた案件は何度もあり、これからも難儀なことは起こるでしょう。
プロジェクトリーダーの責任感はゼロだったのです。マイナスかも。

さて話は変わって、大昔に読んだ本なのでうろ覚えですが、東南アジアかアマゾンのジャングルの部族で、祝い事があると、とんでもない量の祝いの品を送り合う風習があるのだそうです。
それはそれは家が傾くほどのことらしい。
そう言えば戦国時代の武将が主君に貢ぎ物をするときや、朝貢、つまり中国の皇帝への貢ぎ物やそのお返しなども、地の果てまで続くような行列に運ばせていたと歴史で習いました。
またオセアニアかどこかの部族間で、島に訪れた人が物を指さして「それをくれ」と言ったら絶対に断ってはならない風習があると何かで読みました。かなり強い掟であり、断れば戦争にまで発展するのだそうです。

何が言いたいかというと、人類社会は、贈り物、貢ぎ物、貰い物に関して不条理な慣習を作り上げ、厳しくそれを守り続けてきたと思われるのです。
そして古い社会ほど、その不条理さは増しているようです。
ボクのパブリックなしがらみも、すべて不条理な贈与に関わることではないかと思っています。

お寺には、お布施という贈与をします。
お墓や仏壇へのお供え、花も贈与ですし、その行為を怠ってないというポーズをお坊さんや近隣社会に見せています。
神社での祭事では、役務という贈与を果たす以外に、まあまあの額のお金を包んだりします。
お寺や、その上位の寺(西か東かの本願寺)で何かあれば(近々久しぶりの何かがあるらしい)、何やら寄進しなければならないようです。
農会だの町会だの、いろいろな組織への会費も、何に使われているか知らないまま支払っています(ジーサンらの飲み代かも)。
もう贈与だらけです。ボクにとってすべて不条理な贈与なのです。
見渡せば、お歳暮だの年賀状だのお年玉だの、みな不条理です。
一時期、この家には毎年のように2キロくらいある樽入りの奈良漬けが届けられていました。大量の奈良漬けって、不条理を通り越して暴力でしかない。
もうみんな、ただただ世間体を気にして、贈与という風習を守っているポーズをとっているだけとしか思えません。

さて突然ですが、ある国際結婚の話をします。
新婦は日本人、新郎はフランス人でした。
新婦へはたくさんの祝いの品やご祝儀が日本人から送られましたが、フランス人たちが新郎の方へ送った贈り物は、庭の花で作ったような花束や、せいぜいワイン程度だったそうです。
もちろん新婦は内祝いとして、せっせとお返しをしたのですが、新郎は何もしなかったとのことでした。
日本とフランスで何が違って、こうなったのでしょう。

ボクは個の強さが関係していると考えました。
人類社会とは「贈与」という「くびき」でつながれている。
そして「個」が強くなると、古い社会、つまり「贈与のくびき」から離れるようになるのではないかと考えました。
中世以前って「個」なんてほぼ存在しませんでした。パブリックだけです。
一方フランスは「個」が強い、個人主義の社会と聞いています。
社会に対する市民の革命を世界で初めて起こしています。
友だちは1人で十分だと教えられていると聞きました。
集合時間に必ず遅れてくるのはフランス人とも聞きました。
「フランス 個人主義」で検索すると、多くの事例を見つけることができます。

いろいろな職場を経験しましたが、ドライな職場ほど、年賀状や、お土産、祝い事の贈答の文化から遠い印象です。
ドライな職場を言い換えると、「個」が優先されている職場なのでしょう。
そう言えば最近このnoteで、贈与という文化・風習に対して疑念を持たれている記事をよく読みますが、そんな記事を書かれている方たちほど、個が強そうな印象です。(というかそれらの記事に触発されて書いていますが)

ボクも個が強めの人間です。
そのせいで「贈与のくびき」から離れたくなる傾向が強いのでしょう。
そう言えば贈り物が超苦手です。
祝い事や内祝いなどの不義理をしょっちゅうやらかします。
年賀状は20年くらい前から、返事をGW〜夏休みに出すのが関の山となり、ここ数年は無視の状態です。

単に自分のだらしなさを「個が強い」という言い訳にしているって?
ボクは修行僧のように、掃除、整頓、規律正しい生活ができているほうで、だらしなさとは無縁だと思っています(飲酒以外は)。
あのフランス人留学生は、いみじくもボクをフランス人のようだと称した。
彼は、なかなかの慧眼の持ち主だったんだ。

さて先ほど「贈与のくびき」と表現しました。
「くびき」は、自由を束縛する意味の言葉ですが、具体的に何を表すかご存知でしょうか。
牛や馬の首に取り付けられた木の棒のことです。
「首・木」ですね。
2頭の並んだ牛馬の首に橋渡しして取り付け、それぞれが勝手に動けなくする役割があります。
しかしこの記事のタイトルは、「個を縛る『贈与』という『くびき』」とせずに、「…『贈与』という『絆』」としました。これはちょっとしたトラップなのでした。
「『贈与』という『絆』」の「絆」を、おそらくほとんどの人が「きずな」と読んだでしょう。
違います。
これは「ほだし」でした。「絆」は「ほだし」とも読みます。
「くびき」の意味なら「ほだし」の方を使うでしょう。
あえてすぐ後の文章に「呪いに近い慣習にほだされていて」と書いていたのはヒントだったのです。

ただ「きずな」も本来は自由を束縛する意味もあるようです。
以前にも書きましたが(恐怖のともにあらんことを)、「きずな」は「木・綱」です。木に綱で繋がれている、から転じて、離れがたい結びつき、あるいは、からみ取られて動けない様子=ほだされる、ということです。

「きずな」は離れがたい結びつき。
離れたくない人にとっては良い意味でも、離れたいと思っている人には自由を束縛するものです。
そんな人と人との結びつきを強化し、確認し合うのが贈り物なのでしょう。
贈与とは社会が要求する呪いのような慣習なのです。

さてこれで、たいして名家でもない、ただ古いだけの農家の継承という、ほぼ呪いに近い「贈与」を先祖から受けたことへの、長い長い愚痴は終わりです。

そういや夫婦間で誕生日のプレゼントをしなくなって長いなあ・・・
・・・と、遠い目になる。
やっぱり年賀状の返事を書くとしようかな。夏までには。それではまた。

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