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15歳の娘が男だと言い出した。(15)

クリニックには付き添ったが、診察室は、「自分だけで行ってくる」という彼女の気持ちを尊重して待合室で待つことにした。
診察後、医師から「不安神経症」であると告げられた。
そしてカウンセラーとのセッションを10回受けることを指導され、
その日は帰宅した。

それから何週間か経過したある日、カウンセラーから電話があり、
夫婦二人で来院するようにと告げられる。
入室早々、私たち二人をじっくりと観察していることは、その視線から理解していた。
カウンセラーという職種が、なぜかとっても嫌いな主人は、クリニックに行く車の中で「なんでわざわざ呼びつけるのか」、「電話でいいじゃないか」、「どうせあれこれ観察されて、勝手なバイアスで毒親とか診断するに違いない」、などなど、それこそあなたがバイアスで見てるでしょっ!と言いたいほど、文句タラタラだった。

開口一番に言われたのが、
自傷行為があります。リストカットではないですが、太ももを彫刻刀で切ったということを本人から聞いています。またODも考えていることを、本人から聞いていますので、まずご自宅にある痛み止めなどはお子さんの手の届かないところに管理してください。」という衝撃的な内容であった。

一体なぜ、うちの子に限って。。。

何にそんなに思い詰めているのかさえ、微塵も感じさせない毎日を送っていた。

今まで特につまづくようなことがなかった娘。

音楽や絵画が大好きで、フルート、ピアノ、絵画教室にだけ通い、小学校時代、塾に行くことはなかった。
6年生の時、仲良しが受験するということに触発され、この地域では一番偏差値が高い中高一貫校に、受験したいと言い出したことがあった。話し合った末、過去問を一冊購入し、自宅でわからないところを見てあげる程度の勉強しかしなかった。そしてその1校だけ記念受験をした。
小学校中学年ごろ、自分で本が読めるようになると、読み終わるまで夜中まで起きていることがあったことから、本を読むな、勉強するなと、年子の弟とは正反対の声かけをして育てたくらい、なるべくプレッシャーをかけて育てないように接していた。
友達関係もそこまで問題もなく、家庭環境もごくごく普通。
思春期特有の反抗期やお父さん嫌いもあるが、一般的な成長発達であり、親子の関係は良好であった。

なぜ?ばかりが頭に浮かんで、目の前のカウンセラーの言葉が全然頭に入ってこない。黙ってばかりの私に反し、主人が話し出した。
「娘に何があったのですか。」
「それは言えません、お嬢さんがご両親には言わないでと言っているのです。」
「そうですか、ではなぜ今日私たちをお呼びになったのでしょうか」
「お嬢さんの自傷行為と、ODの可能性があることをお伝えしたいと思いまして」
「そうですか。」
主人は不服そうに、そう言った。
「2回セッションが終わりまして、これからはストレスコーピングの方法や自傷行為をコントロールする方法などを練習していきます。希死念慮はありますが、具体的な方法などは考えていない様子ですので、リスクは低いと見ています。ですが、念の為、ご自宅にある常備薬などはお嬢さんの手の届かない場所に保管してください、そしてお部屋にある彫刻刀や画鋲などは、お母様方で預かってください。」
「刃物などを片付けてもいいのですか、娘は何があったのか、親には言いたくないのでしょう?自傷行為やODについて、私たちが知っていることは問題ないのでしょうか。」
「はい、娘さんには、親御さんに伝えて良いと了承を得ていますので、一緒にお部屋のお掃除をするような感じが良いかもしれませんね。」
「わかりました。お部屋の掃除、一緒にやってみますね。」
「まだ2回しか、お嬢さんとお話ししていませんが、非常に頭が良く、記憶力がずば抜けて良いという印象です。記憶力が良いぶん、過去のことにとらわれやすく、白黒はっきりつけたいという本来の性格と完璧主義なところも見受けられます。ご自分の強い正義感から、他人にされたこと、ご自分のしたことを、罰するような様子も感じられます。」

カウンセラーさん、よくみているなと感心した。
そういう娘なのだ。
ママ友からは、お利口さんで、本当にうらやましいと何度も言われた娘。
一見すると、なんでもそつなくこなし、優等生で何不自由なく順風満々に育ったように見えるようだ。
だが、とんでもないモンスターなのだ。
我が娘は、とんでもなく育てにくい子であった。

生後5ヶ月の後半、後ろにしかハイハイで進めなかった時期に、自分で後ろを確認しながら本棚に近づき、赤ちゃん用のいないいないばあの本を一冊手に取り、ページを最初から器用にめくり、最後のページでお母さんが坊やを抱っこしてにっこり笑うページでは必ず声を出して笑う娘を見た時、正直、母親ながら、ゾッとしたのだった。

うちの子天才と思うのが普通かもしれないが、職業柄、乳幼児の発達には精通していたこともあり、あの瞬間、難しい子が我が家に来てしまったと感じたのだった。
1歳ごろになると、お気に入りの本(ノンタンシリーズ)を、1日に一冊を、最低でも30回は朗読させられ、それが何冊にも増えていった。
読み疲れた私がうとうとすると、本の角で頭をつつかれ、
「もういっかい」とせがまれ、私が読むまでしつこくて、絶対に寝ない子だった。

彼女が1歳半になる頃に、下の子が生まれ、記憶にないくらい忙しい毎日だった。
今でも覚えているのは、描くことが好きな娘だったので、紙とクレヨンを渡すと、3時間でも4時間でも、ひたすら絵を描いていたこと。
2歳で同じことに3時間以上、毎日毎日ひたすら集中するなんて、今思えばおかしかったのだ。
静かに絵を描いているから、正直助かっていたのだが、私が止めないとやめなかった。そして、一つのことを長くやり続けた日に限って、寝る前に3時間も4時間も、泣き続けたのだ。しくしく泣くというのではなく、ギャーギャーと腹の底から大声で泣き叫んだ娘。当時のご近所さんからは、虐待をしているのではないかと疑われたほど、2歳から始まり6歳ごろまで、それこそ毎晩、毎晩、12時ごろまで泣き叫び続けた娘だった。

私も主人もヘトヘトになり、発達相談にも行った。
色々と検査もしてもらった。
そこで言われたのは、「知能の発達と、情緒の発達の差が大きい。」
大きくなればその差が縮まるが、今の段階では、知的好奇心をそそるような知的活動をさせすぎないこと、と言われたのだ。
日中に知的活動をさせすぎると、寝る前に脳がオーバーヒートして情報処理が追いつかない。
つまり、興味があることを、やらせすぎない
こればかり言われたから、興味津々の文字や数字も、大好きなお絵描きも、音のでる楽器も、なるべく本人からは遠ざけて遠ざけて見せないように育てたのだ。
そして雪でも猛暑でも、とにかく外をたくさん歩かせて、公園で遊ばせて
体力消耗させて、自然の美しさや楽しさに気持ちが向くようにして育ててきた。
スポーツ嫌いだけれど、少しでもやってみようかなと思えたスポーツは、一緒にやったり、姉弟で参加したり、友達と行ってみたりなど、積極的に参加してきた。
知的好奇心が高い幼少期に、それに向かわせないように過ごす毎日は、葛藤もあった。弟がとってもシンプルな坊やだったこともあって、彼女の育てにくさは、露呈していった。
発達のギャップだけでなく、生まれ持った性格が完璧主義であることも重なり、理想通りに自分ができないと、ひどく落ち込み、理想に近づくまで脅迫的に頑張りすぎる性格であるため、生きにくい人生を歩むのではないかと心配した。
いつしか「上手くいかないことがあるのが人生、できなくても大丈夫」と何かにつけていうのが口癖になってしまっていた。
弟には、「少しは頑張りなさいよ、なんですぐ諦めるかな」と言い続け、娘には「頑張らない、あきらめる!」と反対の言葉をかけ、姉弟の正反対なキャラに翻弄され続けた。
しかし10歳をすぎる頃には、落ち着いてきた。
その頃には、親の私も扱いがわかるようになってきて、彼女のピリッとした鋭さを丸く削るような言葉を掛けながら接していくうちにどこにでもいる普通の娘に成長してきていた、と思っていた。
だけど、、、
幼い頃の、親の目に見えた黄昏泣きは、大きくなった今でも、
目に見えない心の叫びとして彼女は泣き叫び続けていたのかと思うと、
胸が締め付けられるのだ。

続く

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