ダニー・トランスそのものとしての『ドクター・スリープ』20200810 - 20240511

『シャイニング』問題

 『ドクター・スリープ』は『シャイニング』の続編だ。スティーブン・キングという作家が『シャイニング』という小説を書き、キューブリックという監督がそれを原作にして『シャイニング』という映画を作った。キングは数十年経ってから自作『シャイニング』の続編として『ドクター・スリープ』という小説を書き、マイク・フラナガンという監督がそれを原作にして、映画『シャイニング』の続編として『ドクター・スリープ』という映画を作った。

 何故わざわざ上のようなパッと聞いて理解できないような書き方をせねばならないのか?シンプルに『ドクター・スリープ』の映画化であると言えば良いのでは?そうは行かない背景が『シャイニング』にはある。まずその辺について書いていこう。

・キングとキューブリック


キングといえば絶賛、何にでも絶賛のコメントを寄せる何でも絶賛おじさんがキングだ。自分自身も自作を原作にZ級ゴミホラー映画を作ってそれを楽しんでさえいる。どんな作りものでも「これはこれで良いよね」と楽しめるタイプで、良い言い方をするなら、虚構そのものを愛してやまない非常に健全で健康的な作家がスティーブン・キングである。
 そして、キューブリックといえば並ぶものはいたとしても越えるものはいないような大天才だ。これに先立つ作品は『2001年宇宙の旅』やら『時計仕掛けのオレンジ』やら、どれも映画史に名を刻む傑作である。
 悪いことなど何も起きなさそうな流れだ。だがしかし、キングはキューブリック版『シャイニング』は激しく嫌った。嫌っている。原作者として嫌悪を公言し、自分で実写版を撮り直してさえいる。

 これはキングにしては異例の事態ではあるものの別に難しい理屈があるわけではない。原作と映画を比較してみれば、何がそんなに気に食わなかったのかは誰にだって分かるレベルの話だ。キューブリックは、キングがひとりの人間として原作に込めたもの、作品の核の部分を無視した。しかも表現することに失敗したのではなく意図的に削り取っていた。キングにとってかけがえないテーマはキューブリックには不要な要素に過ぎなかった。
 そしてこともあろうに映画『シャイニング』は傑作だった。単に面白い映画とかに留まらず、これまた映画史に残る作品だった。こうして圧倒的な認知度を勝ち取った映画『シャイニング』、そのキューブリックのバキバキの絵作りとジャック・ニコルソンのキマリきった狂気は、原作『シャイニング』をすっかり葬り去ってしまった。

・映画『シャイニング』

 見たことないって人は今からでも見れば良い。今見ても面白いし。てか『ドクター・スリープ』を見たり少なくとも興味を持ったりする人が『シャイニング』観てないなんてことあるのか?
 復習がてらざっくり内容を書き起こしておく。

映画『シャイニング』あらすじ。

 トランス一家、父ジャック、母ウェンディ、子ダニー、の3人がオフシーズンの管理人としてオーバールックホテルという名のリゾート施設に缶詰になる。
 ダニーは発育が乱れた子のように扱われているが、ホテルの料理長であるハローランさんはそうではないと見抜く。ダニーやハローランは似たような力を持っていて、互いにそれを感じ取った。ダニーに現れているのは「症状」ではない。ダニーは超能力のようなものを持っていて、普通の人間には分からないものを感じ取れてしまうのだ。

ネットで拾ってきたダニーくん。かわいい。


 ダニーはその能力でホテルの忌々しい過去を感知出来るため、幽霊のようなものを見始める。親父ジャックもダニーほどではないが力があり、気味の悪いものを目撃し始める。
 ジャックは売れない作家である。本人的には本業である執筆は一向に進まない。彼はかつてアル中で、ダニーに危害を加えたことがあって、今は断酒している。しかしこの閉鎖的な状況の中、何もうまく進まないことで彼はそのうちに頭がおかしくなってくる。
 ダニーがホテルの過去によって傷つけられた跡を見て、ウェンディはジャックがまた危害を加えたのだと疑う。その疑いはジャックの狂気の加速のトドメとなる。
 巨大な機械としてのホテルが、ダニーの持つ力の大きさにより目覚め、その力をさらに欲している!と天啓を受けたジャックは、息子をホテルに捧げねばならない。かくして彼は斧を持って母子を追い回す。
 息子と父にしか見えなかった幽霊が、パニックの中で増幅されたダニーの力によってウェンディにも見え始める。
 最後はホテルの庭の巨大迷路で子が父を撒き、母子は逃げる。迷路の中で凍死した父ジャックは、頑張ったで賞としてオーバールックホテルの「一員」にしてもらいました。めでたしめでたし。

・「善悪のせめぎ合い」と「現象」

 キングがずっとずっと描いてきたのは、神への信仰が根にある「善と悪の戦い」である。キューブリックがそんなものに興味があったとは思えない。彼は徹底的な理性主義者であり、現実主義者であり、物事は象徴的な善悪どうこうの遥か以前、現象でしかなかった。
 例えば、キューブリックは『2001年宇宙の旅』において、人間の進化の可能性として肉体を捨て精神だけのエネルギー体のようなものになる未来を既に描いていた。つまりこれをそのまま適用するなら、キューブリックにとってダニーやハローランさんは霊感体質なのではなく、現行の人類よりも精神の力が高まった人類なわけである。映画『シャイニング』においてジャックやダニーが見るのは場所の記憶だ。彼らは4次元的に過去に感応しているのであって、あれらは幽霊ではないのだ。
 邪悪な過去とそれに絡め取られてしまった邪悪な魂が巣食うホテルにおいて正気と狂気、思いやりと怒り、善と悪がせめぎ合う古き良き道徳の系譜に連なる幽霊屋敷ホラーは、特異な進化を遂げ精神感応能力を身につけた男の子、その力を巨大な機械、システムたるオーバールックホテルが求め暴走し、そこにいる人間たちもまた隔離されきった極限状態の中壊れていく、そんな超能力SF心理的ホラーへと作り変えられた。
 こう書き出してみると、映画『シャイニング』には『2001年〜』における人間と人工知能HALの殺し合いに似たものを見出すこともできる。何にせよそこに善悪や人間らしい情感、湿っぽさはなく、現象たちの因果も曖昧である。

・「ジャック・トランス」

 そして、キューブリックがさして関心がなく、しかしキングにとっては作品の核だったのが、ジャック・トランスという人のあり方だ。アルコール中毒に悩み執筆が上手く行かず、いつか壊れて息子や妻を殺してしまうのではないかというジャックの不安は、かつて鳴かず飛ばずの作家志望だったキング自身の不安だ。
 原作では一瞬正気に戻ったジャックがダニーを逃すことで脱出が成功する。ジャックの中で良心と思いやりが打ち勝ち、それまでのダメ人間でダメ親父だった自分を償う。結局何者にもなれないが、彼は人として最大にして最高にして最後の勝利を収めるわけだ。このシーンはキングにとって『シャイニング』の最も大事なシーンだったろう。
 しかし映画ではそんなシーンは一切ない。ジャック・ニコルソンは初めから壊れているし、良心の呵責で苦しむこともほとんどなければ、贖罪もない。彼は、隔離されきった極限状態と仕事が進まぬストレス、アルコールへの渇望、現実逃避として狂った。そこには愛憎やらなんやらはない。そうしてむしろ道を踏み外し切ってひととして取り返しがつかなくなった後に、ようやく彼はホテルというシステムに自身の居場所を見出す。その最期は虚しくも美しい。ジャックという壊れた人間には初めから救いなどなかったのだし、そんな彼にさえ超次元的存在であるホテルは居場所を与えてくれた。

・続編『ドクター・スリープ』へ

 かくしてキングは、制作の段階からキューブリックと揉め、意見が激しく対立したまま作品は完成、大ヒットした。後には批評的にもホラー映画の金字塔としての地位を得た。
 それが許せないキングは『シャイニング』を罵り続けた。映像化権を持っていたキューブリックが、キング本人による実写版『シャイニング』への許可を出した時の条件は『これ以上私の映画への悪口を言わないこと』だったと言われる。問題はまったく解決を見ず、そもそもの知名度の差から、映画『シャイニング』による虐殺、という結果はキングがどれほど怒っても揺ぎようがなかった。

  そこから数十年の時間が流れる。
 キングによってあくまで自作『シャイニング』の続編、として『ドクター・スリープ』が書かれた。そしてマイク・フラナガンによる映画版『ドクター・スリープ』が2019年公開された。この作品はキューブリック版の続編として原作を脚色した作品であり、結果として『シャイニング』問題が再び蘇ってくることとなった。

ふたつの間に生まれた『ドクター・スリープ』

 フラナガンの『ドクター・スリープ』はキングの『ドクター・スリープ』を原作としておきながら、キューブリック版『シャイニング』の続編と位置付けられた。
 これは商業的な理由として、
「あの映画『シャイニング』の続編!」
と謳うためであろうか?そもそもはそうだったかもしれない。キューブリックの『シャイニング』が原作を改変している以上その続編として『ドクター・スリープ』を作るなら、再びキングの原作は改変されざるを得ない。
 しかし今作品はキングによるお墨付きまで得た。キューブリック版の続編なのに?キングは一体何故怒らずにむしろ作品を褒め称えたのだろう?

 それはこのフラナガンによる『ドクター・スリープ』が、上に書いてきた『シャイニング』に纏わる問題を踏まえ、その解決を試みようとした作品だからだ。この問題を知らずとも、ドキドキハラハラ超能力バトルスリラーとして楽しめるとは思うが、何故こういう作品になったのか、の理由まではわからないだろう。

・映画『ドクター・スリープ』

 さて『ドクター・スリープ』は、『シャイニング』の直後から始まる。ダニーはホテルから帰っても、まだそのトラウマに悩まされ、未だ見えてしまうものに怯え続けていた。死んで尚もダニーを支えてくれる、同じ能力を持つハローランさんに対処方を教えてもらい、ダニーは心の中で幽霊を箱に閉じ込めてしまうことでその問題をとりあえずは乗り越える。

 でもあくまでとりあえずだった。数十年後、ダニーはアル中となり、定職にもつけず、その日暮らし。このままではいけない!と直感に導かれるままとある田舎町へ流れ着く。そこで出会った親切な男に助けられ、ホスピスの仕事や公園のアトラクションの管理の仕事、さらにはAAミーティングにまで参加させてもらう。
 特にホスピスの仕事では、死期を迎えたご老人を、自身の精神感応能力でもって癒すという自分の役目を見つけ、彼は活力を取り戻していく。
 同時に彼が力を使ったことでそれを感知した、同じ力を持つ少女アブラと黒板を通じて簡単なやり取り、文通を始める。

 さらに8年が経つ。

 ダニーはついに断酒にも成功し、ミーティングでスピーチをする。彼が語ったのは、似た状況に陥ったからこそ気づけた、父の苦悩と、それでも彼が持っていただろう家族への愛だった。
 その頃、文通相手の少女には危機が迫っていた。ダニーやアブラのような能力を持った者の特別な精気を吸い取って生きている化け物集団が、彼女の大きな力に目をつけていたのだ。
 彼女の救いを求める声を一度は断ったダニーだが、ハローランさんに肩を押され、彼女を助けることにする。

 幕が切って落とされた血みどろの殺し合い!

  超能力で攻めて来ようとする敵を、ただ遠距離射撃で仕留めていく男たち!シンプルな暴力の強さに感銘を受ける。

 色々あって、仲間も敵も数多く死に、残る敵、ローズvsダニーとアブラ。
 ダニーは、敵を待ち受けるのにいい場所があると語る。僕ら、そしてローズが持ってるような力、それを喰らい尽くすことを望んでやまない場所…

 オーバールックホテル!あの因縁のホテルで最終決戦だ!

 ダニーが自分の力でホテルを蘇らせてからは、それまで抑制されてきたキューブリック版『シャイニング』へのオマージュが連発し、大人になったダニーやローズ、アブラちゃんに登場人物を差し替えつつ、そっくりな構図やショットが続く。大人になり、呪われたように親父と似た道を辿ってしまったダニーが、ジャックの構図やショットを生き直すのは言うまでもなくエモい。親父とのバーでの再会、「家族なんぞ病だ、酒はその薬だ」と言い放つ親父ジャックに、「僕は薬など要らない」と言うダニー。

 ダニーの力までをも吸い、 最高潮のローズ。その餌に食らいついたホテル。オーバールックホテルファミリーが勢ぞろいし、ローズを喰らい尽くす。だがしかし、もちろんホテルはダニーにもさらに襲いかかる。

 1人逃げていたアブラは、かつてのダニーのトラウマ、腐った老女に出会う。そこへ助けにきたダニー、と思いきやダニーはかつてのジャックのようにホテルに乗っ取られてしまっていた。斧を振り上げるが…ダニーはその手をすんでのところで止め、アブラに逃げるよう言う。

 到着時に、いずれボイラーが爆発するように仕組んでいたダニー、爆破を止めようとするホテルの干渉を振り切り、仕事をやり遂げる。死にゆく彼には、母ウェンディの幻影、はたまた幽霊、が寄り添う。

 かつてハローランさんにしてもらったように、死んで尚もアブラを支えるダニー。

 アブラもまた、ダニーと同じくホテルから帰って来た今になっても腐った老女に取り憑かれているままだ。かつてダニーがしたように、それを箱に閉じ込めるのであろうアブラ。

 ダニーと会話をする娘を心配する母、それに対しアブラは「大丈夫。死後も生き続けるの。存在するのよ。」と言う。おわり。

・『ドクター・スリープ』が果たしたこと

 『シャイニング』問題と『ドクター・スリープ』のあらすじをこうして長々と書いてくればもう明らかであると思うが、映画『ドクター・スリープ』とは、キューブリック版『シャイニング』で殺され、なかったことになってしまった原作の要素を、「親父が失敗してしまったこと」としてダニーがやり直す話なのである。ダニーは失敗してしまった、もっと言えばキューブリックとジャック・ニコルソンによって殺されてしまったジャックを懸命に生き直そうとする。
 それは例えば、
「自分の善にも悪にも転びうる力を、希望として受け入れ役立てること」
だったり、
「邪悪なものには何としてもノーと言ってやること」
だったり、
「そしてそれらによって他人を思いやり、助けること。」
だったりする。
 これらはキングが『シャイニング』のみならず繰り返し自作品で描いてきたことであり、映画『シャイニング』では削られてしまった要素である。それがその続編、映画『ドクター・スリープ』では意識的に作品の核に、数十年越しに解決せねばならない問題、として置かれているのだ。

 オマージュの構図やショットもそういう観点で興味深い。
 ダニーが現在に向かって過去をその力で写して見ることが出来るのと同じく、鑑賞者は、オマージュのシーンを見るたびにその画面と同時に1974年の『シャイニング』、その鑑賞体験の記憶に感応する。我々もまたダニーと同じく過去へと感応しているのだ。
 この瞬間、鑑賞者が覚える感覚は、単なる懐古趣味や目配せだけではない。40年間かけてダニーがやってきた、過ちを犯した親父の道を敢えて辿るという呪いとしての地獄めぐりであり、しかしダニーが覚悟を決めた今では、地獄巡りの先の結末を変えるためにくぐり抜けねばならない、イニシエーションとしての地獄巡り、その道連れとしての感覚なのである。

 我々もまた、キューブリックの『シャイニング』の映像の美学やニコルソンの演技に魅せられて大事なことを見落としていた。その過ちを償い、根本的なことへ、良心だとか思いやりだとか、そういうシンプルで大切なことへと今の時代だからこそ立ち帰らねばならない。ダニーの旅は、我々が我々を正すための旅でもある。

 ダニーは死んでしまう。物語としては悲しい話ではある。分かりやすくダニーがハッピーエンドを迎えることはない。しかし、マイク・フラナガンは優しい結末をつけるのも忘れない。アブラの言う通り、『ドクター・スリープ』がどんなことを「シャイニング史」に付け加えようと付け加えまいと、原作『シャイニング』も映画『シャイニング』もキングによるドラマ『シャイニング』も、全てそれらを読み観た人たちの中で、何も変わらず愛すべき作品として生き続けるだろう。たとえ何が起きようと、何かを虐殺しきったり、葬り去ったりすることは出来ない。何もかも、存在し続けるのだ。

 キングという母の素朴な愛を支えに、キューブリックというイかれた父の道を敢えて辿ったマイク・フラナガンはかくして、長きに渡る『シャイニング』にまつわる戦いに調和をもたらした。スターウォーズのような、神話のような、壮大な結末がここにはある。それがB級っぽいルックの血みどろ超能力バトル映画として立ち上げられている。内容の改変云々は問題でないのだ。それらを遥かに超えて、母キングの愛がこの作品の核に生きていると言えよう。

あとがき

 この記事は、過去投稿したやつに手を加えた再録である。『ドクター・スリープ』って面白かったよね、どんな内容だっけ?という話になり、この記事復活させたら分かるやんと作業に入った。そのまま写すだけのつもりが、文章をいじり出したら止まらず、やけに時間をかけてしまった。もはや再録というよりは改訂版である。
 追加で事実関係を確認したりはしてないので、今では明確に間違いだったりすることも含んでるかも。そういうのがあったら教えてください。
 昔の感想記事には良いのが他にもいくつかあったと思うので、復活させていきたいっすね。

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