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死に至るデザイン-デザインは魔法か、呪いか、劇薬か

大阪で行う勉強会のプロローグ部分を、勉強会準備前の思考の整理と勉強会の宣伝も兼ねてこちらに書いていきます。


大阪万博のテーマ
"いのち輝く未来社会のデザイン"

デザインという言葉の死が近づいているように感じます。

ここ数年、世の中に"デザイン"という言葉が自由にトリミングされ、実態の欠落した抜け殻となって、日本社会を漂っているように感じます。
大学には文系理系問わず◯◯デザインという学科がいくつも新設され、企業や役所は組織改編の中で◯◯デザイン部などという部署を次々と立ち上げています。

同じ人間集団の中に複数の"デザイン"組織がいたずらに生まれ、意味なく死を迎えています。

いつしか"デザイン"という言葉は、私達が抽象概念を言語化する労力を省き、あるいは責任の所在を曖昧にする体の良い締め文句として日本語化されていきました。

20年ほど前に米国で生まれた「デザイン思考」が生み出した一種のデザイン崇拝は、太平洋をまたぐ中で発酵し、形を歪めながら液状化して日本社会へ染み出していきました。

スーツを着てデザイン思考ワークショップを受け、"デザインを理解した"50代の役員が鼻息を荒くしながら「次の時代はデザインがくるぞ」と息巻き、自組織の中に"デザイン"的な手法を取り入れようと躍起になりましたた。

若手社員にもデザインのありがたさと重要さを解き、"デザイン"的な発想法をベースにした新規事業開発や既存製品の再構築を行わせようとしました。

あれから時が経ち、デザイン思考は日本社会を変えてくれるような成果は与えてはくれませんでした。

残ったのは形骸化した"デザイン"という言語記号で、デザインはその言葉の本質を離れ、ただ役所やリタイヤ間際のサラリーマンたちの言葉遊びに利用されるようになりました。

これからデザインはこの国の中でどうなっていくのでしょうか。

今では空気のようになってしまったデザインという言葉に今一度重量と手触り感を感じられる距離で向き合い、触れ合いながら今日的なデザインのあり方、特に組織の中におけるデザインの意義を捉え直してみたいと考えています。


デザインを部品化させる組織

現代日本においてはデザインがビジネスにおいて重要な役割を果たすという事実を疑う人は少なくなったように感じます。

特に自社プロダクトを開発する事業会社においては、これまで外注していたデザインを内製化させる目的でデザイナーを雇ったり、デザイン会社を買収して自社内にデザイン組織を持つような動きが活発化してきました。

これまで組織の中になかった人材を流入させることで、低迷し、頭打ちになっているビジネスをドライブさせるカンフル剤としての役割をデザインに求めました。

しかし、そのように外からアドオン的に、部品としてデザインを組織に持ち込むことで本当に組織が生まれ変わるのか、という部分に大きな疑問を感じています。

今組織が抱えている問題の本質はデザインなのか?
その課題はデザインが解決すべきものなのか?

ビジネスが上手く進まない理由を、自分たちが持っていない能力に求めることは非常に気楽で、優しいものです。

上手くいかないことの原因が自分たちに足りない能力にあるのであれば、それを外から補えばいい。
自分たちはその専門家ではないのだから、自分たちに否はない。

これと似たようなことがちょっとしたイベント用のチラシ作りなどの日常業務レベルのデザインでも見つけることができます。
「デザインが上手くできないから教えてほしい」と言う人の資料を見てみると、「これはデザインだけ直して解決できる問題ではないかも、」と思うことがあったりします。

デザイン以前に何を伝えたい資料なのかが読み取れない。資料として、人に正確に情報を伝えるという機能部分にまず欠陥がある場合があります。

説明の主語が不明確だったり助詞が適切じゃなかったりと、日本語レベルでの修正が必要な資料も散見されます。

そのような資料に対してはデザインは非常に無力です。
見る人に"一見それっぽい"印象を生み出すことはできても、次の瞬間にはメッキが剥がされる事態に陥ります。

一方で、人は自分にはない能力や技術に過剰な期待をしてしまいます。これを書いている自分に至ってもいくらでも思い当たるフシがあります。

そして、これは組織全体にも同じようなことが言えます。

デザインは無力である

「デザインをしてほしい」という依頼を受ける場合におけるデザインの言葉の立ち位置は、往々にして「意匠(画)を作ってほしい」と近い意味合いを帯びています。
おそらくデザイナーを生業としている人の周囲で飛び交う"デザイン"もこの意味で使われることがほとんどでしょう。

そこには「中身は自分たちで作ってるから外見だけプロが整えてほしい」という見えない線引が存在しています。
もちろん多くのデザイナーたちの反論として「自分たちは外見を整える絵描き屋じゃない!」というものがありますが、一方で外見を整える絵描きとしての仕事の需要が圧倒的に多く、世の中のデザイン仕事と呼ばれるもののほとんどがこの領域に該当していることも事実です。

そのような「外見を整えるデザイン」はビジネスにおいては非常に従属的で補助的な役割にすぎません。

アプリやWEBのUIデザインを考え、いくらFigmaでプロトタイピングしたところで実際のサービスが動作しなければ意味がないし、動作したとしてもそもそもそれが人に求められているものでない限りビジネスとして成り立ちません。
1ポスト投稿するまでに50分かかるSNSのUIをいくら素晴らしいものにしようが、テレホンカードのデザインに佐藤可士和を起用しようが意味がないのです。

しかし、ここでもパワーポイントと同じような事象が往々にして発生してしまいます。
頭打ちの原因を、自分たちに足りていない領域に求めてしまう。

-サービスが売れないのはUIデザインがイマイチだからじゃないか?
-ランディングページがイケてないからじゃないか?
-Webページのボタンの色を変えたらもっと押してもらえるんじゃないか?

劇薬のデザインと堆肥のデザイン

ここまで述べてきたような「組織へ変化をもたらさないデザイン(外見だけのデザイン)」は劇薬のデザイン、「組織へ変化をもたらすデザイン」を堆肥のデザインと名前をつけ、それぞれを区別しながら本編では議論を進めていこうと考えています。ここではそのサワリの部分を思考の整理も兼ねて書いていきます。

劇薬のデザインには魔法のような即効性があり、CVやPVなど目に見える効果が期待できるため手軽に手を出しやすい性質を持っています。
しかし、そもそもとして売り出すプロダクト自体や、それを生み出す組織自体に脆弱性がある場合はその効果が継続していきません。

そのため企業はその薬の効果が急速に薄れてきたタイミングで危機感に煽られまた劇薬に手を伸ばしてしまう。しかし打てば打つほど薬の効果は薄まっていきます。

それでも企業は投薬をやめることができません。
「次は効果が出るかもしれない」という期待のもと、費用を投下して静脈に針を打ち続ける呪いのような悪循環が生まれ、幸か不幸かその構造のおかげで多くのデザイナーたちが今日も餓死することなく働き続けられています。

言うまでもなくこんな業界構造は極めて不健全であると言えます。

いくら粗悪な製品であっても、劇薬を使うことで目先の一時的な数字を獲得できるのかもしれませんが、そもそも粗悪な製品を作らざるを得ない状況に陥っている組織の問題を解決しなければなりません。

組織の中に入り込んでそのガン細胞を取り除き、徐々に歪んだ骨格に体重をかけながら補正するような、あるいは長い期間をかけて少しずつ負荷をかけながらゆっくりと筋肉質な体質へ変化させていくような、そんな変化をもたらす存在が必要です。

それは決して明快な解法があるようなものではなく、もしかしたら1年や2年で成果が出るようなものでもないかもしれません。

しかし、こういった組織の深部へ入り込みながら健全な自省と忍耐を持って組織の性質を変化させていくような営みが、旧態依然とした構造から抜け出せない組織に求められていくと考えます。

こう言った、目に見える成果が得づらく、かつ即効性もないような課題に愚直に向き合うようなデザインを堆肥のデザインと名付け、伸び悩みを感じている企業、特に古い日本企業において、どんな"デザイン"および"デザイナー"が必要なのかということに関する自分の考えをまとめてみたいと思ってます。(これから)

劇薬的なデザインはAIが食いつぶす

少し視点を変えてみます。

ここで述べていた「劇薬のデザイン」は、「AIによって置き換わる(置き換わりやすい)デザイン」ともほぼイコールの意味として定義づけることができます。

そういった意味では、この「劇薬」の意味はクライアントの企業側に対してだけでなく、デザイナー自身にも言えるものかもしれません。
デザイナーもこういった手軽に得られる目先の利益ばかりを求めてしまうと、あるタイミングから一気にAIによって仕事を奪われてしまう可能性が高いと思われます。

そう考えると今回の勉強会(というのもおこがましいくらい単なる個人のプレゼンのような性質のものなのですが)は、組織のマネージャーやPM、開発者向けと銘打ってはいるものの、デザイナーの方にも聞いていただきたい内容になっているようにも思えてきました。(noteを書くことで考え方がよりまとまってきた気がします)

劇薬のデザインに振り回されないようにするにはどうすれば良いのか、そもそも堆肥のデザインとはどういったものなのか。

そのあたりをもう少し自分の言葉で語れるように消化して、これからまとめていきたいと思います。


AIが浸透しない会社から淘汰されていく

AIの話を持ち出してきたので関連して語りたいのが、AIを使えない会社、AI前提で組織づくりを行ってプロジェクトを進行していくことができない会社から淘汰されていく時代が来るということです。

AIは現在でも様々なリスクが議論されてはいますが、これらによってもたらされる便益はそれらを凌駕するもので、これらを上手く取り入れながら高速で試行錯誤を繰り返し、プロトタイピングをまわし、サービスを仕立て上げられる組織にしか生き残る道が残されていないように感じています。

「何がユーザー価値につながるのか」がわからない時代だからこそ、いかにビジネスの中での試行回数を回せるかが最も重要な指標のひとつとなり、それらにAIを活用できるか否かが企業の生死に大きく関わってくるように感じています。

ほんの数十年前は「ネットに個人情報が抜かれる」ということを恐れてAmazonにクレジットカードを登録することを躊躇していた私達ですが、現在では会社ですらこれらのデータをアメリカの営利企業に喜んで提供しています。

AIもこれと同じく、遅かれ早かれ導入を迫られることは必至です。
しかしそのタイミングが1年、2年と遅くなれば、それまでに開いた周囲との差を埋めることがどんどん困難となり、「時代の流れに乗り遅れた企業」としての烙印を押されてビジネスレースからの離脱を余儀なくされてしまいます。

堆肥のデザインの議論の中で、組織づくりに対して論じるタイミングではこのあたりのことも触れることになるかと思います。


これから求められるデザイナー像

ここまでは組織のあり方という視点で話を進めてきましたが、では一方でこれまで述べてきたような課題を抱えている企業が今後デザイナーを雇おうとする場合、どのようなデザイナーを採用すべきかについても勉強会で話したいと考えています。

結論を言えば2種類。
組織づくりとストーリーテリングに長けた統率力あるリーダー的なデザイナーか、最先端のAI技術にアンテナを張りながらそれらを適切に駆使して自身のクリエイティブを拡張させていけるデザイナーだと考えています。

前者が堆肥のデザインの実践者であり、後者は現代的な意味のデザイナーが生まれ変わった、新世代のデザイナーです。
今後はこういったデザイナーの価値は高まり、相対的に旧世代のデザイナーたちの座席は減り続けていくことと思います。

今後デザイナーに求められるのは過去のポートフォリオの実績と同等かそれ以上に、時代をキャッチアップするセンスや勤勉性、あるいは人を統率していく人間力のようなものになってくると考えています。

そして、そのような時代においてはもしかしたら今日的な意味での「デザイン」という言葉は死に(もしくは役所や定年前の会社員たちの合言葉としての意味しかなくなり)、別の言葉が生まれているかもしれません。

そんな将来的な展望を結びに添えつつ、勉強会の内容を連休を使いながら作ってみようと思っています。

書き始めたら思いの外結構具体的な内容まで踏み込んで書いてしまいました。
正直何かの役に立つ、というような内容の会にはならないかもしれませんが、よろしければ2024年5月14日(火)こんな内容を1時間ほど話してみようと考えています。
お時間ある方、ご興味ある方は大阪京橋まで遊びに来ていただけたら嬉しいです。

では。


他の勉強会の記事はこちらから

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