見出し画像

それでも美術館で写真を撮る自分

美術館や博物館に行くと撮影可能な作品の写真を撮ることがあります。後で写真を眺めることはほとんどなく、消去することもなくiPhoneのデータ容量を使っているだけになっていますが、写真を撮ってしまいます。
たいていは作品の次にキャプションも撮ります。

撮った写真はインスタへのアップ、ノートの記事の投稿に使っていますが、写真を見て余韻を呼び戻すようなことはしていません。

展覧会に行くと、まずさっと見て回り、それからじっくり見て回り、最後に写真を撮ります。3周。

なんだかせわしいなあ、と感じていました。撮影不可の展覧会の方が強く印象に残っています。そんなことを思っている時に司馬遼太郎の「街道をゆく熊野・古座街道、種子島みち」の一文にはっとしました。

こんどの旅では、沿道でみつけた古い民家を、自分の頼りない記憶だけに頼るのではなく、写真に撮っておこうと思い立ったのである。しかし後悔していた。旅に出るのに写真機を持ってゆくなど、母親が赤ん坊をつれて観劇にゆくようなものだと思った。旅の中に身を置くということは、自分自身が感受性のかたまりであることを必要とするであろう。ところが、写真を撮ることに気をとられて、自分自身の感度が二割ぐらいしか作動していないことに、この朝、気づき始めていた。

街道をゆく 8 熊野・古座街道、種子島みちほか 司馬遼太郎 朝日新聞出版

この記述の通り、写真を撮ることに気をとられて自分の感性が作品に集中していないのでしょう。撮影不可の展覧会の方が、作品に集中し、鑑賞している時にいろいろな思いが巡り、それが輻湊して印象が強く残っています。

そんなことを思いつつ、どの角度から撮ろうか、人影が映っていないか、曲がっていないか、光の加減はどうだろか、など写真を撮ることを楽しんでいた自分もいます。シャッター音が他の人の鑑賞を邪魔しているんじゃないかと躊躇している自分も。

最近は写真よりもメモを取るようにしています。感じたことを覚えているうちにメモに取ります。ただ、今ひとつまだ慣れていません。視覚と言語化する脳の機能が上手く連携していない感覚です。

とりとめもなくつらつら書きましたが、それでも写真を撮るだろうなあ、と苦笑してしまいました。

写真は「悲しみの聖母 カルロ・ドルチ 国立西洋美術館」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?