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絵画鑑賞で和歌を思い浮かべる  歌人としての源実朝

絵画を鑑賞していると音楽や和歌を思い浮かぶ作品があります。和歌は日本画を観ている時です。

和歌にもいろいろありますが、風景画に合うのは源実朝の和歌です。実朝は鎌倉幕府の3代目の将軍で、甥の公暁に暗殺されてしまいます。

実朝の和歌は百人一首にも選ばれています。

「世の中は常にもがもな渚こぐあまの小舟の綱手かなしも」

鎌倉あたりの浜辺に立って海を眺めている実朝が、ゆえしらぬ生の哀感にうたれてうたった歌(百人一首 講談社文庫 大岡信)

実朝の和歌集では、金槐和歌集があり600以上の和歌が載っています。よく知られている和歌では、

「箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波のよるみゆ」
「大海の磯もとどろに寄する波破れて砕けて裂けて散るかも」

金槐和歌集には、このような大景をうたった歌がいくつかありますが、古今和歌集や新古今和歌集のような勅撰和歌集に比べて男女の恋などは少なく、恋の歌としては自然に恋する歌です。京の公家とは違い、都から遠く離れた鎌倉という地で武士(もののふ)の頭領として育ったせいでしょうか。

都と違って、和歌を詠う人も少なかったでしょうが、荒々しい武士に囲まれながらも、多くの優れた和歌をうたっています。

鴨長明が鎌倉を訪れた際、実朝に次のように言ったようです。
「これほどの秀抜の歌人のご身辺に、和歌のお仲間がおひとりもございませぬご様子が心許ない」
「将軍家には、恐れながら未だ、真の恋いのこころがおわかりになさらぬ。都の真似をなさらぬよう」
「あずまには、あずまの情がある筈でござります。それだけをまっすぐにおよみくださいませ」
~「右大臣実朝 太宰治」

正岡子規は、「歌よみに与ふる書」にて、実朝を絶賛し、早世を惜しみます。
「実朝といふ人は三十にも足らで、いざこれからとういふ処にてあへなき最期を遂げられ誠 に残念致し候。あの人をして今十年も活かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候」

ちなみに、正岡子規は、同書にて紀貫之や古今和歌集をこき下ろします。古今和歌集の和歌も好きな私にはやや受け入れがたい批評ですが、正岡子規は当時の権威主義的な歌壇に対して反旗を掲げたことを考えると、古今和歌集を引き合いに出して歌壇を批判したのでしょう。

実朝を題にした文学作品は少ないように思います。実朝を描くには壮大な吾妻鏡を読み込むだけでなく和歌を避けて通れず、描きにくいのかもしれません。その意味で、実朝扱った太宰治の「右大臣実朝」は秀作です。

実朝の和歌を読んでいると、風景を通じた実朝の心情が絵画のように見えてくることがあります。都人のように雅ではありませんが、大景が見えてくるようです。

実朝には、承久元年1月、鶴岡八幡宮に詣でる前、庭の梅を見て詠んだという歌がありますが、その夜に甥の公暁に暗殺されます。

「出でて去なば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな」

28歳の時のことでした。

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